著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■秀吉の死に家康がまずやったこと 慶長3年8月18日、天下統一を果たした豊臣秀吉が、伏見城にて62年の生涯を終えた。秀吉の死が、徳川家康の人生にとって、大きなターニングポイントとなったことは、言うまでもないだろう。 家康の生涯については、2023年の大河ドラマ「どうする家康」で取り上げられたことで、ますます多くの人に知られることとなったが、返す返すも語るに値する数奇な人生である。
幼少期は人質として今川家と織田家の間を行き来し、「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれたのを機に岡崎城で独立。織田信長と清州同盟を結び、明日をも知れぬ戦乱の世において、一蓮托生の関係を築いた。その信長が「本能寺の変」で倒れると、「小牧・長久手の戦い」で秀吉と一戦を交えたのち、臣従の道を選んでいる。 そして今、ついに秀吉の命が潰えた。家康は天下人になるべくひた走ったイメージがあるかもしれないが、ことはそう単純ではない。秀吉は自身の死を隠すようにと側近に命じていたが、すぐにそれを知った家康が何をしたか。 家康は、即座に嫡男である秀忠を江戸に帰している。慎重な家康がまず考えたのが内乱だった。跡取り息子を安全な場所に移すことを、家康は何よりも優先したのである。 ■台頭する家康を牽制した人物とは? 家康が内乱を恐れたのは、秀吉の後継者である秀頼が6才とあまりに幼いからにほかならない。秀吉は自分の死期を悟ると、慶長3年8月5日付で、家康ら5人に次のような遺言を残している。 「何度も繰り返すが、秀頼のことをお頼み申す。五人のしゅ、お頼み申す。詳しいことは五人の者に申し渡した。名残惜しくてならない、以上」
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