式典にあたりガンディーニは自身の青年時代を振り返り、「16歳のとき、ラテン語の本を買うべき小遣いで、代わりにダンテ・ジャコーザ著の内燃機関に関する本を買ったのが始まりだった。エンジニアリングをデザインや自動車に応用することは最初の情熱であり、かつ私の職業人生全体に通じる運命の赤い糸だった」と明らかにした。ガンディーニは1938年8月26日に旧イタリア王国のトリノで生まれた。父マルコはオーケストラの指揮者だった。第二次大戦中は、両親の別荘があったフランス国境に近いランツォ渓谷に疎開していた。普通高校を卒業後、厳格な父親に逆らって大学進学を拒否。代わりにデザイナーとして、幼稚園の備品からトリノ随一のナイトクラブ「クレイジークラブ」の内装まで、さまざまなデザインを手掛けた。
最初の自動車の仕事はミラノのカロッツェリア「マラッツィ」においてだったが、1965年9月、27歳のとき「カロッツェリア・ベルトーネ」の2代目社主ヌッチオ・ベルトーネに見出された。入社直後からスタイリング・ダイレクターとして従事。最初の仕事は、前任者ジョルジェット・ジウジアーロから引き継いだランボルギーニ『ミウラ』計画であった。 また、同『カウンタック』では、従来のドライバー着座位置を前進させ、そこにエンジンを配置するという発想で、業界に衝撃をもたらした。ベルトーネ時代の14年間に、量産車とショーカーを合わせて100以上のプロジェクトに参画した。本人自身が回想するように、石油危機がなかったら、彼が手がけたようなスーパースポーツカーは、さらなる発展をみたと思われる。
1979年末に独立。自身のストゥディオ「クラマ」を開設する。Clamaとは、妻クラウディアと自身のイニシャルを基にした造語であった。1980年代はルノーとの契約に専念し量産・試作双方に貢献。樹脂素材の研究、部品点数の削減、さらに工場内の技術革新などの研究に携わった。1984年ルノー『5』では、ルノー社内案、ベルトーネ案とともにコンペに掛けられ、ルノー経営陣だけでなくカスタマーを交えたリサーチでも、ガンディーニ案が選ばれた。また、ベルトーネ出身のデザイナー、ピエールアンジェロ・マフィオードと「Gストゥディオ」を設立。日産を含むさまざまなメーカーのプロトタイプやコンセプトカー開発サービスを手掛けた。
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