そんな田中さんが初めて西武球場を訪れたのは、1979年(昭54)4月17日。この年、球界に新規参入した西武ライオンズの本拠2カード目、対阪急のナイターだった。
都市型の球場が主流だったプロ野球にあって、狭山丘陵の自然に囲まれた新球場は斬新だった。だが、東京から小1時間。球場に吹く風は、4月も半ばだというのに、まだ春浅い季節のそれだった。「よくこんな奥地に造ったな。やっていけるのか」と田中さんは思った。プロ野球草創期、鉄道会社は、沿線開発や事業多角化、本業との相乗効果をもくろんで球界に参入した。しかし、そのビジネスモデルは70年代後半には、阪神タイガースを除き、すでに行き詰まっていた。巨人中心の球界の構図も固まり、パ・リーグでは、ターミナル駅至近の球場でも閑散としていた。池袋から38分、新宿から48分(ともに当時)かかる埼玉県所沢市の球場に、客など来るのか。田中さんならずとも懸念するのは当然だった。所沢の商圏人口は「30分圏内に1000万人」で、一方を海が遮る横浜より大きい。「(所沢には)日曜は花見に20万人、平日でも2万人」。だから「2万人、3万人集めることは簡単」。隣接するゴルフ場を「ピクニック・ランドみたいな形」にして、一帯に平日でも20万人を呼び込む。パの試合にわざわざやってくるのは、よほどの物好きか野球通、ガラは悪いが熱心なファンが主
ナイターの後、電車に乗り込んだ乗客は、所沢、ひばりケ丘と徐々に減って、終点の池袋に着くころには、まばらになっていた。観客の多くが沿線住民なのだ。沿線のライトなファンを動員して球場を埋める。プロ野球と鉄道の原点のような関係が、むしろ新しかった。79年、西武の観客動員は前年比約1・8倍、リーグトップの136万5000人を記録した。 今、パの人気はセに迫り、球場には子供や女性、家族連れの姿も珍しくない。「79年の西武は、時代を先取りしていたのかもしれません」と田中さん。応援団員として通った西武球場。仕事を片付けて、飛び乗るのは、いつも池袋駅18時10分発、西武球場前行き急行電車。都会から住宅街、武蔵野の自然へと流れる車窓の風景を、田中さんは今も時々、思い出すという。(つづく)
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