俳優・渡辺裕之(享年66)との思い出を長年の友人は絞り出すようにこう語った。「渡辺さんは5月3日の午前中、自宅地下のトレーニングルームに入った。昼頃、原さんが食事の支度をして声を掛けようとしたところ、筋トレ器具の傍で倒れている渡辺さんを発見。救急車を呼んだが、既に心肺停止状態だった。ロープ状のもので首を吊っていたようです」(スポーツ紙デスク)渡辺は1955年、茨城県水戸市で生まれた。写真館を営む両親と弟、妹の5人家族。小学校時代から映画やテレビのスターに憧れていたと幼馴染は述懐する。中学ではブラスバンド部でドラムに熱中。端整な顔立ちで女子の人気を集めた。商業高校を卒業後、拓殖大学に進む。独学の英語と独語を武器に在学中からルフトハンザ航空で働いた。「23歳の頃に父が胃の手術で体調を崩したため、ルフトハンザを辞め、家業を手伝っていた。父の体調が回復すると、実家を出てCMモデルなどの仕事を始める。そして1982年、26歳で映画『オン・ザ・ロード』の主演に抜擢され、俳優デビューを果たすのです」出演したリポビタンDのCMは132本
CMによって渡辺には、不屈の精神と鍛え上げた肉体を持つ“熱い男”のイメージが定着した。実際に私生活でも食事を節制し、体型維持に長年努めていたという。多くの関係者が渡辺を「努力家で真面目」と語る所以だ。日独合作映画『ウインディー』(84年)で起用した原田眞人監督が言う。 「独学で学んだ英語で海外の俳優と意気投合。日本人俳優は彼だけだったけど、そのプレッシャーも撥ねのけた。ゴルフのときも、ミスをしたら『なぜミスをしたのか』と色々分析する。だからプロ級の腕にまで上達したのでしょう」「ナベはジョークも言うけど、真面目で自分に厳しい。体づくりのため栄養学も詳しく勉強していた。スタッフルームにはナベが持ち込んだダンベルや筋トレグッズが並んでいたほどです」私生活で転機が訪れたのは、原と出会った90年だ。原には離婚した前夫との間に一人娘がいたが、渡辺は彼女も溺愛。出会って4年で結婚し、原との間に一男一女をもうけ、5人家族となった。子どもの運動会には必ず応援に駆け付け、町内会の行事にも積極的に参加して慕われていた。子どもたちも親と同じ道を歩む。次女の磨裕美はMISIAのバックコーラスを務めるなど、女優・歌手として活動。長男の貴裕は俳優活動をしていた。「ナベは事務所スタッフや原に黙って投資していたので、彼女はショックを受けていた。2人とも詳細を話したがらなかった。ナベは『買った家のローンの返済も大変で』とこぼしていたこともあった」(前出・友人)その後も途切れることなく俳
「60歳を過ぎて体の衰えを隠し切れなくなってきた。ナベはよく『リポビタンDのイメージを崩してはいけない』と口にしていた。だから節制をし、トレーニングもした。でも、歳と共に筋肉や関節に痛みを感じるようになっていたんです。首や腕に疲労が蓄積していった」(同前)追い打ちをかけたのが新型コロナの流行。ドラマ撮影やイベント、音楽活動も制限され仕事が激減した。
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