3連戦」があったからだった。突貫工事で造られた球場と、全てを懸けてゲームに臨んだ選手たち。2015年にミズノスポーツライター賞の最優秀賞を受賞した「洲崎球場のポール際 プロ野球の『聖地』に輝いた一瞬の光」(講談社)の著者・森田創さん(50)の話をもとに、現在の東京・江東区に存在した巨人が初の日本一に輝いた舞台・洲崎をひも解いた。巨人の指揮官・藤本定義は、洲崎球場で開催されるプロ野球元年の日本一決定戦を前に、悲壮な決意で臨んでいた。「私の腹の中には、“この三連戦に勝って、何が何でもプロ野球のいしずえを固めねばならぬ”という悲願があった」―。自身の著書「プロ野球風雪三十年の夢」(ベースボール・マガジン社)で、そう記している。18人の選手の気持ちも同じ。藤本が36年12月9日の第1戦当日の朝に宿舎近くの水天宮に願掛けにいくと、複数の選手がついてきたという。
両軍はプロ野球の未来を背負っていた。洲崎球場と野球創成期の事情に詳しい森田さんは「当時は東京六大学が絶頂期。学生野球の人気をしのぐため、この3連戦で観客の心をつかみ、まだ地位が低かったプロ野球存続への道筋をつける必要があった」と解説する。 藤本は当時のことを「“これでプロ野球も成功した”と、私の血は思わず、躍った」と前述の著書で明かしている。翌年から巨人―タイガース戦は、どの球場でもほぼ満員。「伝統の一戦」と呼ばれ、プロ野球を支える屈指の人気カードとなった。 森田さんは「埋め立て地に造られたために地盤が軟弱だった」と説明する。「当時を知るおじいちゃんに聞くと、外野スタンドがギシギシいってたと。母親に『崩れるから入っちゃダメ』と言われたとか」。砂地のために杭(くい)すら打てず、杉材のスタンドを置いただけだった。
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