2歳のときに東京からニューヨークに移り住んで、そこからバンクーバーに引っ越したんです。当時は日本人が住んでいることが、当たり前じゃなかったんでしょうね。アジア人というだけでからかわれたり、周りの子供たちに追いかけ回されました。でもこっちも追いかけ返していた(笑)。活発な子供だったと思います。
逆に、8歳で日本に帰ってきてから内向的になりました。僕からすると日本は、異国のような感覚。長髪は僕くらいで、周りの子供たちはみんな坊主頭に短パン。日本人なのに周りからは「外人」と呼ばれました。髪が長いからと、いきなり先生に「これなんとかならんのか?」と髪の毛を引っつかまれたり、恐怖を感じることもあった。ただとにかく日本のテレビが面白かったんです。「ウルトラマン」や「仮面ライダー」、ロボットアニメに夢中になりました。だから“逆ホームシック”になることはなかったです。もともと俳優になろうなんて一切考えていなかったんです。14歳からモトクロスを始めて、プロになろうと、関東選手権や全日本選手権を夢中で追いかけていました。高校時代は、お金があったらすべて部品代に消えていた。でも10代の終わり頃にプロとしてやっていけるんだろうか?と立ち止まったとき、若者が経験する普通のことを一切やっていないことに気付いたんです。悩んだ結果、大学に入って、ディスコに行ったり、おしゃれをしてみたり。でも、1年で飽きてしまった。だからバイトしている以外はずっと引きこもって、映画ばかり観ていたんです。そうこうしているうち
※「谜·途」:「琅琊榜<弐>~風雲来る長林軍~」のチャン・ボー(張博)、「有翡(ゆうひ) -Legend of...
周りが大スターの中、誰?という状況。僕の名前を知っている人は誰もいない。それをどうひっくり返していくか。僕はこういう人間ですと説明してもしょうがないので、現場で見せるしかなかった。中国語でのセリフも初めてで、膨大なセリフ量と向き合いながら、物語の歴史的背景も調べていきました。コロナで21日間隔離されていたんですが、一歩も外に出られないのでずっと映画のことを考えていた。プレッシャーはありましたが、現場に入るときは堂々と行こうと。そうですね。ただ日本語の台本は日本語セリフとして完成された状態ではないこともあります。中国語は非常に短い文字数の中にいろんな意味が入ってくるので、それを日本語に翻訳しようとすると長くなってしまうんです。短くしようとすれば、普段日本人があまり使わないような古い言葉や、四字熟語を使わざるを得なくなる。だからそういう言語間の違いを把握したうえで、監督と協議して日本語セリフを修正することはあります。──かなり瞬発力が要求される現場でしたか?
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