麻布の家には、同郷の書生が入れ替わりながら三人くらいいたそうです。芳夫さんはその中の一人。明治(大学)の専門部を出て東洋モスリンという会社に入っていました。武藤家の書生をしていたのは明治の学生の時のことです。芳夫さんのおじさんと私の親父は中学が一緒だったんですよ。丸中(旧制丸亀中学)で同級生だったそうです。当時、姉は弁護士になったから、嫁の行き先がないと親父やお袋が心配したのです。そこで親父が「お前誰か好きな人いるのかい」、と聞いたら姉が「和田さん(芳夫)がいい」と言ったのです。姉から意外な名前が出たことに親父もお袋も驚きました。というのは、芳夫さんは書生の中でも一番おとなしくて静かだったからです。活発な姉とは正反対でした。それから東洋モスリンに勤めていた時は、肺を悪くして一年くらい療養していた時期があったようです。芳夫さんは、それはそれはいい人でしたよ。まじめでおとなしくて、でも言うことはしっかり言いました。姉が尻に敷くような関係ではなく、仲のよい夫婦でした。■「開店休業」状態だった女性弁護士としてのキャリア
姉は丸の内の弁護士事務所に勤めていました。ただ、あまり仕事はしていなかったようです。結婚してわずか1年で戦争が始まりましたから。結局弁護士として働いていた期間は、1年もなかったんじゃないかな。姉は「開店休業だった」と話していました。芳夫さんが召集されて、昭和20年に姉は疎開しました。姉と芳武君、一郎の妻の嘉根と娘の康代の四人です。疎開先は福島の(会津)坂下町というところです。 そこは大変な暮らしでした。私は父に命じられて一度様子を見に行ったことがあるのです。農家の納屋を借りて、むしろを敷いたところに暮らしていました。水はけも悪く、ノミやシラミがいて、なめくじがはうような家でした。戦争が終わって、登戸に移っていた武藤家へ帰ってきたのですが、当時は私と、すぐ上の兄貴は学生。その上の兄貴も出征していて戦争から戻ったばかりでした。まだ幼い芳武君を含めた、全員の生活の面倒を姉が見なければならなくなったのです。■裁判官になって3人の弟やわが子を養った「とと姉ちゃん」
姉が裁判官になったのは、私たち家族を食べさせるためだったと思います。それまで明大の先生もしていましたが、姉から聞いたところによれば、当時の大学の講師は給料が安かったんだそうです。私たちの学費も必要でしたから、大学の仕事では一家を養えなかったのです。それに、あの当時は最高裁に入る、国の公務員になるというのは、とても大きなことでした。生活が安定するということでもあります。それで最高裁に入ったのだと思います。NHK朝ドラに「とと姉ちゃん」ってあったでしょう。私にとっては父であり母であり姉でもある。まさに「とと姉ちゃん」でした。 私は東京大学で林業を学んで昭和27(1952)年に卒業し、林野庁に入りました。各地の営林署を回り、それから民間企業に移りました。転勤族だったので、裁判官になってからの姉とはすれ違いになりました。裁判官としての活躍は、他の方が詳しいでしょう。ただ、私が札幌にいた時に、姉が北海道まで旅行で来たことがありますよ。』編集部註:武藤泰夫氏は令和3(2021)年に93歳で他界しました。今回の記事は平成28(2016)年〜令和元(2019)年にかけて行った取材内容を元に再構成し、ご遺族の了承を得て掲載するものです。
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