〈花盛り 春の山辺を 見わたせば 空さへにほふ 心地こそすれ〉一首目は、桜の満開の時期で、まさに満山桜の花に覆われていると想像される情景です。特に工夫されているのは、第四句「そらさへにほふ」でしょう。「にほふ」は明るい視覚美を表します。山の上方の空までが桜色に明るく染まっている気がすると詠んでいます。
二首目は、千載集の次の「新古今和歌集」(1205年成立。以下、新古今集)での代表歌人となる藤原良経の作です。「ひら」は、琵琶湖の西側の比良山系のことです。その山の上では桜が満開を過ぎて、花びらが風に吹かれて麓へと流れ、下の琵琶湖の波立つ水面が桜の花びらを敷き詰めたようだという内容でしょう。この歌も第四句「花になりゆく」に格別な工夫があり、この言い方で琵琶湖の水面が桜の花びらでいっぱいだと思わせられます。 この二首の特に第四句を中心にしたそれぞれの言い方は、通常ではあり得ないことを誇張して捉えた表現ですが、それによって作者の情景に対する大きな感動が伝わります。美しい情景を描きながら、作者の気持がその支えとなっているとわかる歌です。その点が、前に見た情景の描写に徹しようとする「金葉和歌集」(1125年成立。以下、金葉集)の方向性への反省と言うべきか、新たな修正がなされているように思います。鎌倉時代に入ってまもなく、新古今集が成立します。古今集から数えて8番目の勅撰和歌集です。ここまでを「八代集」と、まとめて一区切りとして呼ぶこともあります。作者は、俊成卿女です。恋をしている人が夜中に目が覚め、庭からの風に乗って花の香りが寝屋にまで流れ込んで、夜着の袖から温もりある枕までもが香り、そこには目覚める前に見ていた恋人との夢の余韻が残っているよ、といった内容です。作者独特の複雑で濃厚な味わいのある一首です。花そのものは目に見えず香りだけですが、人の夢に見られる恋の雰囲気が絡んで濃艶な趣を醸しています。その人物についての恋物語的な一場面とも考えられます。この作者は、新古今集の撰者で当時最大の歌人藤原
我田引水ですが、つまり古今集が和歌での作者の心を重んじたことを、新古今集は、千載集をステップに復活させつつ、新たな世界を提示しようとしているのです。それは単純な古今集の再現ではなく、「後拾遺和歌集」(1086年成立)、金葉集の時代を経て、客観的な情景をも重んじた上で人の心の表現になっているということからもわかります。筆者は、記事を書き始めた時に、本来的な日本人の心のエッセンスを探ろうと目標を立てましたが、結局、日本人が自然とどれだけ深く関わってきたかを確認することになりました。 日本とは何か?との問いを出発にした「八代集」の桜から知られたことを、なお大きく揺れている現代で価値づけるなら、自己とともに多様な他者をも省察して、関わりを育み深めようとする心を大事にするということになるのではないでしょうか。
PontaKizun
日本 最新ニュース, 日本 見出し
Similar News:他のニュース ソースから収集した、これに似たニュース記事を読むこともできます。
ソース: tenkijp - 🏆 133. / 51 続きを読む »
ソース: tenkijp - 🏆 133. / 51 続きを読む »
ソース: tenkijp - 🏆 133. / 51 続きを読む »