戦後76年 3度の空襲生きぬいた父 子供世代が記憶継承

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戦後76年 3度の空襲生きぬいた父 子供世代が記憶継承 東京都八王子市の金子力(つとむ)さんは空襲で家族8人を失った。高齢となり薄れる記憶を、長男の礼志(ひろし)さん(58)ら子供世代が媒介し、孫世代へと語り継いでいる。

15日で終戦から76年。昨年に続き、新型コロナウイルスが慰霊や追悼関連行事に暗い影を落とす中、戦争体験を継承するための模索が続けられている。東京都八王子市の金子力(つとむ)さん(91)は空襲で家族8人を失った。高齢となり薄れる記憶を、長男の礼志(ひろし)さん(58)ら子供世代が媒介し、孫世代へと語り継いでいる。(大渡美咲)

「戦争が終わったから明日は大きな袋を持ってこい」。昭和20年8月15日、当時15歳だった力さんは、学徒動員先の工場で、そう告げられた。翌日、木製飛行機の接着剤として使っていた満州(現・中国東北部)産の大豆を、タオルを縫い合わせた袋に受け取り、4歳離れた姉の園江(そのえ)さん(故人)と食べた。一緒に食べたかったほかの家族は、もういなかった-。力さんの終戦時の記憶だ。力さんは当時、東京都江東区(当時の深川千田町)で両親ときょうだいの10人家族だった。薬剤師の父親が自宅で薬局を経営していた。暗転したのは、20年3月10日未明の東京大空襲。力さんは通っていた板橋区の中学校で宿直をしていた。空襲警報と爆音が聞こえ、外を見ると自宅方向が「真っ赤に見えた」。夜にたどり着いた自宅は跡形もなく、両親ときょうだいの姿もなかった。近くの学校で一夜を過ごしたが「おなかが空いて真っ暗で、怖くて怖くてひと晩中眠れなかった」という。力さんはその後も5月24日、新宿区で「山の手大空襲」に遭遇。終戦間際の8月にも北区の工場で米軍の機関銃掃射に遭い、荒川の土手の葦に逃げ込んで九死に一生を得たという。

3度の空襲を生き延びて迎えた終戦。戦後の暮らしは厳しく「生活費がなく、家庭教師などをして働きながら何とか食いつないだ」(力さん)。亡くなった父と同じ薬剤師を目指して学校を卒業。だが、就職の際は「戦災孤児」を理由に不採用となり「戦争は、終わってからも影響が続く」と感じた。その後、薬学博士となり、息子2人を育てあげた。力さんの父は空襲から逃げずに消火に当たることを定めた「防空法」の下で、警防団員として最後まで消火活動を続け、命を落としたとみられている。戦後、警防団員の戦没者遺族らが毎年5月に東京都戦没者霊苑(文京区)で慰霊祭を行ってきた。ただ、参加者は年々減り、令和元年の参加者は10人。昨年はコロナ禍で休会、今年も開かれなかった。力さんの長男、礼志さんは「毎年、参加者が亡くなったり、高齢で来られなくなったりしており、今後も開かれる可能性は低い」と話す。こうした中、礼志さんは、園江さんの長女の脇山みね子さん(58)とともに、力さんの戦災体験を次の世代に伝えることを計画。「積極的に戦争の話をしたがらない」という力さんの断片的な体験を書き留める形で「自伝」を作成した。当時の戦災地図をもとに孫らも

力さんは最近、戦争に関する記憶も曖昧なことが多くなった。礼志さんは「90歳を超え、高齢となった父の話を記録するには今しかない」と感じる。「戦後を必死で生きた父と伯母の生き方を後世に残し、これからも子供たちにも伝えていきたい」。戦後76年を前にした礼志さんの思いだ。昭和20年3月10日未明、米軍が現在の東京都江東区、台東区、墨田区などの下町を対象に実施した無差別爆撃。B29爆撃機が焼夷弾(しょういだん)を投下し、強い風の中、木造家屋が密集する地域が広範囲に焼失した。死者は約10万人に上るとされる。

 

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日本人全体が侵略者になっていた時代である即ちあれは侵略神社である 8月15日は敗戦の日である

日本人として、議員が靖国神社に参拝するよりも、戦争が発生するメカニズムを解明し、将来の戦争回避を誓う方が慰霊になると思う。 戦争だけは二度と起こしてはならないと体験者が語り、聞く側もそう思う。 東大・京大に戦争発生のメカニズム解明と回避策を探求する学部を創設すべき。 国会 東大

今日は終戦の日か。 当時の悲惨さを伝える広島の原爆資料館の展示が、今も忘れん。

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