中国では紀元前6000年までに農耕が始まり、黄河流域ではアワやキビが、長江流域ではイネが栽培された。人口は増加し、紀元前4000年頃には各地に文化を共有する地域的なまとまりが形成された。これらの地域間ではゆるやかな文化交流もおこなわれるようになる。
遺跡の面積はおよそ4平方キロメートルあり、この時期の都市としては破格の大きさである。さらに注目されるのは、壮大な宮殿の出現である。遺跡の中央には、土壁で囲まれた宮殿区があり、いくつかの宮殿の遺構が確認された。中でも1号宮殿の遺構はおよそ100メートル四方あり、土を突き固めて作られた基壇の上に建設されていた。このような宮殿はこれ以前の都市には見られず、巨大な王権が出現したことを物語る。 儀礼では多様な玉(ぎょく)製の道具が使用された。玉は早くから中国で珍重されてきた素材で、現在もなお中国人にとって特別な宝石である。二里頭では宮廷儀礼の成立とともに、貴族の身分を示す玉器も出現している。また初めて青銅製の酒器が用いられた。青銅自体はこれ以前から利用されていたが、製造技術は格段に向上し、精巧な酒器が作られた。当時の人々にとって、金属の輝きは初めて見るものであり、儀礼の効果を高めたはずである。このように黄河中流域は革新的な農業システムによって気候変動の時代を乗り切り、二里頭の王権を生み出した。二里頭の王権は、壮大な宮殿と、新技術や希少材を駆使した宮廷儀礼によって王権の安定を試みた。象徴的なのは、二里頭遺跡に城壁や環濠(かんごう)がなかったことである。紀元前3000年紀の大規模集落や、二里頭に続く殷(いん)前期の都は高大な城壁により厳重に守られており、二里頭遺跡とは異なっている。
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