三菱財閥創始者・岩崎彌太郎が清澄庭園をこだわって造り上げた理由

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三菱財閥創始者・岩崎彌太郎が清澄庭園をこだわって造り上げた理由 ●なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。 清澄庭園( 東京 )の名石コレクションには岩崎の自負が隠されているのではないか

岩崎彌太郎は、土佐・井ノ口村の地下(じげ)浪人の家に生まれました。土佐藩と言えば、坂本龍馬ですが、龍馬は下級武士の家に生まれています。土佐では、上級武士が山内一豊など山内家に仕えていた家臣の子孫で、下級武士はそれ以前の長宗我部氏の家臣とすっかり線引きをされていました。岩崎彌太郎の場合は地下浪人で、さらに身分が低く、幼少期は極貧の中で育ちました。しかし、頭脳明晰だったために幼くして、儒学者・小牧米山(こまきめいざん)に弟子入りしました。

21歳のときに江戸に行き、帰国後土佐藩の執政・吉田東洋を知ったことから後藤象二郎と親しくなり、この関係が明治維新後も続くことになります。土佐で坂本龍馬と交流を持ったかどうかはわかりませんが、1865年に長崎で龍馬らが運営していた「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が「海援隊」となり、このとき、会計を担当していたのが岩崎彌太郎です。 彌太郎の日記に、「午後坂本竜馬来たりて酒を置く。従容(しょうよう)として心事を談じ、かねて余、素心(そしん)在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」とあります。広い世界を感じながら、長崎で龍馬は政治改革、彌太郎は商売に奔走していたのでした。 「いろは丸」で龍馬は航海に出ますが、別の船と衝突して沈没してしまいます。衝突した相手側と賠償責任の交渉をしたのも彌太郎でした。長崎では武器商人グラバーとも取引します。それが縁で、維新後、グラバーは三菱で雇われることになります。

 

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