しかし、パンテーラには思いもよらぬ厳しい運命が待ち受けていた。同年に発表された1974年モデルを最後に、たった2年間でパンテーラの販売終了をフォードは宣言したのだ。アレッサンドロ・デ・トマソとは長い間、行動を共にしていたデザイナーのトム・チャーダは、こう語ってくれた。「そのころ私はアレッサンドロがパンテーラ・プロジェクトから興味を失っていたことに気づいていた。水面下できっと何か大きな動きがあるに違いないと推測したのを覚えている。こっちは一生懸命に次期パンテーラのプロトタイプを仕上げているのに、アレッサンドロは何の意見も展望も語らない。明らかにおかしかった」と。
更にイタリアにおいて労働運動は激化する一方であった。特に共産党勢力の強いモデナ地区では、従業員たちが勝手に職場放棄をするという山猫ストライキが多発しており、製造におけるトラブルは日常茶飯事であった。生産スケジュールを厳守させようとするフォードとデ・トマソとの関係は悪化し、一触即発状態ともなっていた。また、アレッサンドロにはフォードからのプレッシャーがあっただけではなく、イタリアのメディアからも“アメリカの言いなりになるイタリアのフォードマン”として、糾弾の声が上がっていた。アルゼンチン生まれということで、モデナにおいて異端児扱いを受け、それと戦ってきたアレッサンドロの置かれた状況はますます厳しいものになっていった。
ならば、どうする?...
パンテーラ・プロジェクトの為にフォードの命でモデナのデ・トマソへ駐在したドン・コールマンは、こう語った。「フォードがパンテーラの販売を中止したことは残念なことだった。しかし、当時フォードが置かれていた環境を考えるとそれは避けられないことだった。経営が傾くほどの費用と人材を投入し、低公害化と安全規制への対応をせざるを得ない時期に、そういった流れに逆行するようなクルマを作り続けることを世論が許さなかったのです」と。もはやわずかな利益しか生み出すことのないスポーツカーにコストも人員も費やすわけにはいかなくなってしまったのだ。アイアコッカもそれをかばうことのできない窮地に立っていたことは前述したとおりである。
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