前回は尼崎の市外局番がなぜ「06」になったのか-を探った。ところが、尼崎には「町」が電話をひくより約10年早い明治26年に、単独で電柱を立て電線をひいて電話を開通させた会社があった。その名は『尼崎紡績』。後の大日本紡績、現在のユニチカである。そして、この尼崎紡績こそが、工業都市・尼崎への〝起点〟となった会社だという。尼崎紡績の誕生物語を見てみよう。「尼崎紡績」といわれてもピンとこない方も多いだろう。昭和39年の東京オリンピック、女子バレーボールで金メダルを獲得し「東洋の魔女」といわれたメンバーの多くが所属していた会社が「大日本紡績・貝塚工場」(通称・日紡貝塚)。その前身が「尼崎紡績」である。そんな彼らが目をつけたのが「紡績業」だ。明治15年に渋沢栄一によって、大阪に近代設備を整えた「大阪紡績」(後の東洋紡)が誕生。その後、次々と紡績会社が興っていた。「彼らはいまさら小さな会社を興しても大阪紡績や鐘淵紡績(後のカネボウ)には太刀打ちできない。どうせ作るのなら業界で1、2を誇る大企業を-と考えたんですね。でも、それには尼崎だけの資本力ではできない。そこで、大阪の資本家を巻き込んだんです」う
そして44年、系列会社だった「日本レイヨン」と合併し新会社が誕生した。社名は結合を意味するユナイテッドの「ユ」と、ニチボーの「ニチ」、そしてカンパニーの「カ」と合わせて「ユニチカ」と命名された。な~るほど!阪神電鉄の大物駅から徒歩10分弱の場所に建つ英国式のレンガ造り2階建て。尼崎市内最古の洋館だ。明治33年「尼崎紡績」の本社事務所として工場内に建設。大正7年に大阪へ本社機能が移り工場事務所となった。だが、老朽化が進み、令和元年に公開停止。尼崎市、兵庫県、ユニチカ三者が協議し令和5年3月、「工業都市尼崎の歴史を象徴するシンボルともいうべき建築物」との判断から、尼崎市が取得。恒久的に保存し活用できるように検討を進めている。『女工哀史』や『あぁ野麦峠』などの影響で製糸工場や紡績工場=過酷で劣悪な労働環境と思われがちだが、「尼崎紡績」の福利厚生施設は充実したものだったという。他地域の出身者のため、いち早く寄宿舎を建設。家族で移住してきた人のためには社宅を用意。工場の南側に居住区域を設け、診療所も完備していた。そして大正7年「摂津紡績」と合併し「大日本紡績」となり、大正12年に当時、兵庫県を中
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