らした名将は「パリ五輪に出られないと、マイナー スポーツ になってしまう」との危機感を抱いて再登板し、出場権獲得へと導いた。危機感からの再登板で実感がこもっていた。自身が監督だった12年ロンドン五輪銅メダルの経験を伝える場として、竹下佳江さん、木村沙織さんらを合宿に呼び指導を仰いだ。「オールジャパンで総力を挙げていかないと勝てない」との思いが強かったからだ。
ネーションズリーグ(NL)で、真鍋監督の手腕が最も発揮されたのは、第1戦のトルコ戦だった。セッターに岩崎を起用したが、19年に日本代表から外れ、昨年のパリ五輪予選にも出場しておらず、トルコも対策はしていなかったはずだ。そのサプライズで世界ランク1位を破り、日本を勢いに乗せ、五輪出場権獲得につなげた。 真鍋監督が日本代表のセッターだった頃、元日本協会会長の松平康隆氏が「真鍋は(ぐう話の)『うさぎとかめ』のかめなんだよ」と話したことがあった。うさぎとかめが競争し、堅実に目標に向かって進んでいったかめが、途中昼寝して休んだうさぎに勝つという例えだった。その例が22年NLだ。五輪翌年で多くの強豪国が若手に経験を積ませるなどした中、日本は初戦からベストメンバーを組み、開幕8連勝で世界ランクのポイントを稼いだ。「我々にとってはここが勝負だった」と真鍋監督。かめならではの戦い方だった。
真鍋監督が日本代表に入った85年は、三橋栄三郎、岩島章博、川合俊一(現日本協会会長)ら、テクニックがずば抜けた選手が多く、彼らは合宿で何の練習でも軽々とこなしていたが、同監督はなかなかクリアできず何度も何度も挑んでいた。だが、その後に合宿を取材すると、同監督もそれらの選手と同様に行い、黙々と練習をこなす姿があった。88年ソウル五輪代表に選ばれ、日本リーグ(Vリーグの前身)では三橋らを擁する富士フイルムの6連覇を、新日鉄の一員として阻止する原動力になるなど着々と力をつけた。松平元会長の言葉に納得した。◆(まなべ・まさよし)1963年8月21日、兵庫・姫路市生まれ。60歳。大商大高、大商大から86年にセッターとして新日鉄入社。92年からコーチ、93年から監督を兼任し、96、97年にVリーグ連覇。99年はイタリアのパレルモでプレー。2000年に帰国して旭化成などを経て05年に引退。08年末に女子日本代表監督に就任。10年世界選手権で銅。12年ロンドン五輪では28年ぶりの銅。16年リオ五輪後に一度退任し、21年10月に復帰。
日本 最新ニュース, 日本 見出し
Similar News:他のニュース ソースから収集した、これに似たニュース記事を読むこともできます。
ソース: SportsHochi - 🏆 53. / 63 続きを読む »
ソース: SportsHochi - 🏆 53. / 63 続きを読む »
ソース: PRTIMES_JP - 🏆 114. / 51 続きを読む »
ソース: SportsHochi - 🏆 53. / 63 続きを読む »
ソース: goonewsedit - 🏆 40. / 63 続きを読む »
ソース: SportsHochi - 🏆 53. / 63 続きを読む »