神奈川県ゆかりの作家である庄野潤三(1921~2009年)の遺族から、原稿や書簡、写真などを寄贈された神奈川近代文学館は「庄野潤三文庫」として保存している。それらを生かした「庄野潤三展」(~8月4日)が始まり、初日の6月8日に足を運んだ。展示を見た後で、会場に来ていた長女の夏子、長男の龍也に話を聞くこともできた。(敬称略)会場に入るとすぐに、古備前の大きな甕(かめ)が目に飛び込んできた。『夕べの雲』に、その甕を手に入れるまでのエピソードが記されていたことを思い起こす。主人公が、大きな甕が家にあったら気持ちがゆったりとするのではないかと考え、求めたのだ。庄野が40歳の時から50年近く暮らし、家族小説の舞台ともなった家は、小田急線の生田駅から20分ほど坂を登った丘の上にあり、庄野は「山の上の家」と称した。住所でいえば、川崎市多摩区のその家を、私は2度、訪ねたことがある。でも、懐かしく感じるのは、それだけが理由ではない。庄野作品には家の中のあれこれや庭の風景が、大切な器物を扱うようにつづられている。それを読み続け、なじんでしまったのだろう。
1949年に「愛撫」が「新文学」に掲載され、この作品に注目した「群像」の編集部から原稿依頼が来た。「群像」に「舞踏」が掲載されたのが1950年で、このとき初めて原稿料を得た。展示されている「舞踏」の草稿を見ると、最初に置かれたプーシキンの言葉の短い引用を斜線で消していて、興味深い。冒頭の一節を読む。端正な文字で書かれていること、旧かなであること、「守宮」に自ら「やもり」とルビを振っていること―。彼の人柄と書かれた時代を感じる。戦後すぐに教職に就くが6年で辞め、1951年から大阪の朝日放送で働き始める。業務の傍ら執筆を続け、作品が芥川賞候補にもなって注目されるようになると、東京に出て他の若手作家と交わりながら活躍したいという思いが募った。上司にその気持ちを伝えると、東京支社に異動させてくれた。
「あんなにつらいことはなかった」と龍也が振り返る。しかし、夏子はそれを口にせずに耐えたらしい。「行く前は余裕がなかった父が、帰ってきたら明るくなっていた。自分の行く道が定まったんじゃないでしょうか。父の転機になったと思う」。確かに翌年8月、帰国時の写真では庄野はとびきりの笑顔だ。夏子のうれしそうな表情も印象的だ。 1985年、64歳の時に脳内出血で入院した時のことは『世をへだてて』に詳しく書かれている。大病から生還し、奇跡的な回復を遂げた作家は、70代半ばから、老夫婦の淡々とした日常を記した連作小説をゆっくりと書き継いでいく。「うれしい」「ありがとう」「おいしい」「よかった」。肯定的な言葉が並ぶ作品群は、静かなブームになった。娘の夏子が言う。
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