野本は、豪農の出身から商家へと婿養子となり、第六十九国立銀行取締役、長岡電燈会社取締役、新潟県会議員などを歴任し、「自分を尊ぶように他人を尊ぶことが幸福な社会の実現へと繋がる」とした独自の「互尊思想」の提唱・普及などをしている。野本互尊という人物は、当時の長岡の人々にとってどのような存在だったのだろうか。また長岡の街にどのような影響を与えたのだろうか。彼の生涯を振りかえつつ、改めて考察してみたい。
1872(明治5)年、20歳になると、長岡の豪商・野本家の婿養子となり、同家の跡を継ぐことになる。当時の長岡は戊辰戦争敗戦後の傷が未だ癒えぬ最中で、戦後復興という大きな課題を抱えていた。士族と町人がお互いに派閥を作り、しばしば対立を生んでいた。当時の野本家は、不動産業と貸金業を生業としていた。一家の主人は養祖母のひで、それに次いで、妻となる長女リイ、妹のリツという女所帯の中での、唯一の男子となった。農家からやってきた互尊は、今まで自分が育ってきた環境と、全く異なる環境の中に身を置き、商人としての道のりを歩んでいくことになるのである。1880(明治13)年、兄の山口権三郎と組み、「誠之社(せいししゃ)」という商工人の集まりを組織化した。名前の由来は「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」という言葉からで、「誠を大義とした健全な商売人の集団」を目指した。同年12月15日の夜、第六十九国立銀行の設立総会では、「貨幣の流出を抑えて、国産品を製造し輸出を奨励する」という宣言の一部に、当時輸入物を扱っていた唐物商の岸宇吉が激しく反発した。このとき野本は、当時長岡商人の代表格として影響力を持って
1915(大正4)年5月には、大正天皇即位の大礼を祝う記念事業として、図書館を寄附及び、その経営も長岡市に任せたいとの旨を市長に申し入れて承認された。図書館は、かつての三島億二郎の邸宅があったところで、現在の長岡グランドホテルのあたりに、建設された。この頃に野本が語った言葉として、「わたしは図書館を寄附したのではない。互尊文庫を寄附したのである」というものが残されている。図書館を自らが提唱した「互尊思想」の修養の場として位置づけ、世の中に互尊思想を広めるための場としていたようである。このことから、図書館の名前も「互尊文庫」とされた。1918(大正7)年6月8日に「互尊文庫」は開館し、それまで長岡市内にあった市立図書館の閲覧数が1万人を超えたことがなかったのにも関わらず、同「文庫」が開館した年には、5万人を超えたという。子ども、高齢者、産業人、学生、女性達が足繁く通った。また、同「文庫」では、講演会なども開かれ、長岡市民の文化活動の一翼を担った。野本の邸宅跡は現在、如是蔵博物館として保存・活用されている。
野本が与えた影響は、単に長岡だけに留まらない。明治天皇を深く尊敬していた彼は、明治天皇の誕生日を祝日にすることを主唱し、これが現在の「文化の日」の制定にも繋がっている。また、富士山に国立公園の設置を、帝国議会に建議するなど、日本精神の形成にも、影響を与えている。「野本互尊は、三島億二郎のように多面的・横断的に活躍した人物。長岡の経済、教育、政治など様々な分野で貢献した。(このような人物は)当時としても珍しかったのでは」と長岡市立中央図書館文書資料室の田中洋史室長(50歳)は語る。田中室長によると、「(野本は)生前から“互尊翁”と呼ばれ、銅像も建てられた。人々の尊敬を集めていた」という。
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