軽妙洒脱(しゃだつ)というか、さらさらと描いたようなタッチの作品で、明かりに照らし出された夜店の前に、日本髪の女性と男の子が立ち、何かを買おうとしている。顔は影になっていて、その表情はわからない。それでも、いや、だからこそ、夏の宵の風情がやわらかい空気感とともに漂ってくる気がする。そのあと訪ねた大阪・四天王寺でも菅の絵を見かけた。
東京でも京都でもない、大阪(大坂)画壇があった。近年あまり語られないが、ときにこうして思いもかけないタイミングですれ違う。大阪で仕事をしている筆者にとってもその存在は、一瞬パッと輝いて消えてしまう、線香花火のようだ。けれど、またどこかでパチパチとどこか懐かしい閃光(せんこう)を放つのを見かけるという繰り返しである。その中でも人気があり、文化人としても知られるのが菅だ。父も絵師だが独学で、職人かたぎで求められて絵を描くことを大切にした。だからだろうか、美術史に名が登場することはあまりない。例えば、谷崎とは「聞書抄(ききがきしょう)」の挿絵を描いたことから生涯にわたる交流を続けた。あの名作「細雪」の初版本の装丁を手がけてもいる。菅の方が少し年上で、亡くなったときの追悼文で谷崎は「古武士のやうなその風采、その言葉つき、物の言ひぶり、趣味、学殖には何ともいへない味はひがあった」と述べた。
それで思い出したのが司馬のエッセーだ。明治のころの話だろう、大阪の長屋で「今日より正成出づ」という張り紙が出るという話を聞いて驚いた司馬が「楠木正成が出るのですか」と聞くと、「へい」と品よくうなずく。「町内に必ず一つは寄席がごわりましてな…」と説明してくれたというのだ。そのいいよう、しぐさに谷崎のいう「味はひ」がしのばれる。 司馬はその人物像について「いかにも婉(えん)で古めかしく、古武士のような律義さを保ちながら生涯大阪の町絵師としてすごされた」(『余話として』)と書いている。大作家2人がともに古武士と表現したのが興味深い。実際、当時の日本人としては背も高く彫りの深い顔立ちで、和服姿が美しかったという。さて、そうして敬愛された菅だが、実は鳥取生まれで、子供のときに一家で大阪に出てきている。以来、生涯大阪の町や風俗、文化を愛した。大阪の市井の風俗を描かせれば右に出るものはなく、寺社の行事や武将などの歴史画、造詣の深かった舞楽や神仏画もすばらしいと思う。
大作で知られるのが、聖徳記念絵画館壁画「皇后冊立(さくりつ)」だ。若き日の昭憲皇太后(明治天皇皇后・美子(はるこ))が宮中に入る様子を描いたもので大阪市の依頼である。余談だが、サンケイ・大阪新聞で連載された檀一雄の「男戦女国」の挿絵も担当した。残念ながらこちらはまだちゃんと見たことがない。