淡谷のり子の歌う「雨のブルース」(作詞・野川香文)/作曲・服部良一)は、1938(昭和13)年6月に日本コロムビアより発売され、中国など戦地でも好評を博した楽曲で、片面は中野忠晴「バンジョーで唄えば」(作詞・藤浦洸/作曲・服部良一)だった。発売時の表記は、それぞれ「雨のブルーズ」、「バンヂョーで唄へば」である。両曲の譜を書いた服部は、ウクライナから日本に亡命した指揮者、エマヌエル・メッテルの下で修業を積んだコロムビア専属の作・編曲家として知られる。服部と同時代に活躍した堀内敬三や仁木他喜雄などの作・編曲家と並んで「ジャズソング」(戦前の洋楽系ポップスの総称)の草分けである。戦中・戦後と多くのヒット曲を放ったが、その活躍の様子は、「東京ブギウギ」(作詞・鈴木勝/作曲・服部良一)の歌手・笠置シヅ子を扱ったNHKの朝ドラ『ブギウギ』(2023〜24年)にも描かれている。
作詞の野川香文は島根県出身。早稲田大学建築科を卒業後、福澤諭吉が創刊した『時事新報』で学芸部に配属されるが、学生時代から音楽誌『レコード』(音楽世界社)の編集に携わるなど、洋楽全般に精通していた。1930年代には(最初期の)ジャズ評論家として独立したが、評論活動の片手間に、移入された洋楽の訳詞も手がけていた。アフリカ系アメリカ人のあいだで地域的・限定的に歌われてきたブルースを、全米的なエンターテインメントとして定着させたのは、コルネット奏者であり、作曲家兼プロデューサーであるW・C・ハンディ(1873~1957)の功績である。そのハンディが1914年に作った「セントルイス・ブルース」が日本に移入され、服部など音楽関係者に衝撃を与えたのが、日本におけるブルースの事始めとされる。ブルースとは、ブルー・ノート・スケール(長音階の第三音、第五音、第七音に♭音を加えた音階)を用いた楽曲で、ハンディなどによりアメリカのジャズで一般化されたもの。服部良一や仁木他喜雄などの作・編曲家に多大な影響を与えたが、和製ブルース初の大ヒットは淡谷のり子「別れのブルース」(藤浦洸作詞/服部良一作曲)だった。
ただし、淡谷が「ブルースの女王」と呼ばれたのは、翌年「雨のブルース」がヒットしてからのことだ。先に触れた朝ドラ『ブギウギ』では、「ブルースの女王・淡谷のり子」と「ブギの女王・笠置シヅ子」が対比的に描かれているが、笠置が「ブギの女王」と呼ばれたのは、「東京ブギウギ」(1947年)がヒットしてから、つまり戦後のことで、ドラマの脚本・演出には時代的整合性がいくらか欠けている。ちなみに、「ブギウギ」もまた「ブルース」のバリエーションの一つである。朝ドラ『ブギウギ』の劇中では、歌舞音曲や敵性文化に対する戦時統制が強まった1940年頃からの日本も舞台となっている。憲兵や特高(特別高等警察)とのやり取りのなかで、淡谷が派手な舞台衣装を咎められて、「これが私の戦闘服なのです」と答える印象的な場面があるが、淡谷の最初の半生記である『酒・うた・男』(春陽堂書店・1957年)によれば、咎め立てしたのは憲兵でも警官でもなく、銀座を歩いていた一婦人であったという。
東京や大阪の朝日新聞をはじめとするメディア各社が、政府や軍部に同調して「鬼畜米英」や「ぜいたくは敵だ」などのスローガンを掲げた激しいキャンペーンを張るなかで、派手な衣装や英語、英米発の歌舞音曲は、戦争の長期化に伴い禁止されるが、こうした時流に乗って、相互監視の姿勢を強める「銃後の国民」が、いかに多かったか。不幸な時代である。淡谷は軍歌が不得手だったが、まったく歌わなかったわけではない。陸軍省に呼ばれて皇軍慰問を打診された帰り道、将校を先頭に「暁に祈る」(野村俊夫作詞/古関裕而作曲)を歌いながら行進する、兵士たちの悲哀に満ちた姿を見て共感し、このとき「私にも軍歌が歌える」という確信を得た。戦争の終盤、淡谷の「別れのブルース」や「雨のブルース」はすでに禁歌となっていたが、慰問先の兵士たちは「ブルースの女王」の本領発揮を強く求めた。
淡谷が、厳罰を覚悟の上でブルースを歌い始めると、監視役の将校は、見て見ぬふりをするか、会場からそっと姿を消すなどしたおかげで、兵士たちは皆、人目を憚らず淡谷のブルースにむせび泣いた。歌いながらその光景を見た淡谷も、涙が止めどなく溢れた。終演後、廊下で秘かにブルースを聴いて涙ぐんだ将校を目撃して、彼女は「歌は生きている!」と実感したという。いい話である。
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