その夜、ブラウン管に映しだされたのは、プロデビューからわずか1年8カ月の間に27戦全勝25KOのパーフェクトレコードを築いた挑戦者が、凶暴な左右の拳で王者のトレバー・バービック(カナダ)をわずか2ラウンドで戦闘不能に追い込んだシーンだった。以来、タイソンは並外れたスピードとパワーでボクシング界を支配した。11度目の世界戦となった1990年2月のダグラス戦での敗北が「史上最大の番狂わせ」と呼ばれたのも、その圧倒的な強さの裏返しである。離婚訴訟、アルコールと薬物依存、女性トラブル、放蕩(ほうとう)と暴力…。1992年3月にはレイプ事件で有罪判決を受け、3年間服役した。復帰後も世界のベルトをいったん腰に巻いたが、僕が新聞社を辞めてフリーの物書きになった2001年になると、タイソンは明らかに落日のときを迎えていた。
そしてこれは同じ立場になった人にしか理解できない感覚かもしれないが、ペン一本で生きていく不安と向き合うようになった僕は、墜ちたダークヒーローにそれまでとは違う感情で向き合うようになる。かつて畏敬の念を抱いた同い年のボクサーが破滅していく姿をしっかりと目に焼き付けておくことが、心の底にはりついた不安をほんの少しでもぼやかしてくれることに気づいたからだ。 2003年6月に上梓した初の長編ノンフィクション『拳の漂流』(講談社)で物語の主人公であるベビー・ゴステロが戦後のボクシングヒーローから転落していく姿を描くときも、タイソンの存在を意識しながら筆を進めた。『俺は訓練された猿のようだった。リングの中では俺の時代のはずだ。なのに、まだ俺は観客席にいた』こうしたタイソンの〝肉声〟にふれ、第三者がボクサーの挫折について語る行為に後ろめたさを感じずにはいられなかったのだ。
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