大阪府出身の折田アマの父はアマ三段。「小さいときから父とよく対局していました」。兄も将棋が好きになり、幼いときは2人で将棋を指すようになりました。小学6年のとき、将棋のインターネット対戦に夢中になりました。
当時、一般家庭に普及してきたのは電話回線(アナログ)を使ってインターネットに接続する高速・大容量通信サービス「ADSL(非対称デジタル加入者線)」。それまでは従量制で低速だったインターネットを使い放題で高速なものに変えました。小学6年の夏にはハマりすぎて、両親に怒られることもありました。ネット対局と同時に「ケーブルテレビの囲碁・将棋チャンネルで銀河戦を見るようになっていた。プロ棋士の将棋を見ていて『なりたい』と思うようになった」。少年の夢は膨らみます。小学6年の冬には研修会に入会。中学に進学すると、卓球部に入部しました。「1対1の戦いが将棋と同じだから、以前からなんとなく好きだった」。幼いことから勝ち負けへのこだわりが強く、負けず嫌いでした。奨励会で1級に上がったことで「高校を辞めて将棋に専念したい」-。
両親に思いを打ち明けましたが、猛反対されました。「高校は卒業してほしい」。粘り腰で理由を並べました。「5級から1級まで勢いよくいけた。だから将棋に専念したいんや」。プロ棋士になりたい夢を両親に淡々と説明しました。約1カ月、説得し続け、高校2年の10月、中退。退路を断ち、将棋に専念するはずが…。1級に駆け上がった勢いは影を潜めます。自らを律し、時間をコントロールすることにてこずりました。将棋以外のことは全部排除して、将棋に集中しようと何回も思ったが、他のことをしてしまう…。その繰り返しの日々でした。「それまでの人生で一番、うれしかった。東京に行って指す機会もできた。そういうのは楽しみでした。何よりも強い三段と指せるのは楽しかった」
21歳の春、ついに三段リーグが始まりました。最難関の三段リーグは、三十数人いる三段同士が半年間、18局ずつ指し、上位2人だけが四段(プロ)に昇段できます。将棋の才に恵まれた全国の俊英がしのぎを削り、半年に2人、1年間で4人。究極の狭き門を経て、ようやくプロ棋士にたどり着くことができます。折田アマの1期目は8勝10敗。独特の雰囲気の対局も経験しました。1期目の最終局は年齢制限で退会が決まっている三段の先輩との戦いでした。「年齢制限が近い方は、プレッシャーを感じて指されているなと。自分も気を引き締めて、臨みました」。26歳で退会というタイムリミット。後年、折田アマもそのプレッシャーと戦うことなります。「いろいろと試行錯誤をしてやっていた。5期目の時期に、実家から出て、1人部屋を借りて、環境を変えた。それでもなかなか結果にはつながらず、自分の力が上がっているという実感もなかった。そのあたりで自分の力の限界を感じた」年齢制限は24歳ぐらいのとき、意識しだしたといいます。「やっているときは『上がれる』と思いこんでやっている。でも客観的に見たら『無理かな』というもう1人の自分がいた」。将棋では「遊
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