75年目のヒロシマ、原爆がたどった道を歩く

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人類史上初の核兵器使用から75年。広島の惨禍へと至る原子爆弾の歩みを振り返る。

現在はほとんど忘れ去られたこの場所は、太平洋に浮かぶテニアン島にある。当時、米空軍のB29爆撃機はこの島から飛び立ち、日本への核攻撃を実施した。テニアン島は北マリアナ諸島の一部で、現在は米国の自治領だ。2020年、のんびりとして飾り気のないこの熱帯の楽園には3000人が暮らす。数えるほどのレストランと2~3軒の小さなホテル、ガソリンスタンドが1カ所ある。島の面積は101平方キロ。米軍が両島を必要としたのは、最新鋭のB29爆撃機によって約2400キロ離れた日本本土への攻撃を可能にするためだった。そして44年の夏、記録的な数の戦死者を出した3カ月に及ぶ戦闘の後、米軍は島を制圧。直ちにB29のための大規模な飛行基地を建設した。原爆の組み立てを行った施設の跡地で、私とガイドはレンタカーに乗り、旅の次なる目的地を目指す。少し車を走らせると、地面を掘り抜いて作った「ピット」に着く。完成した原爆はいったんピットの底に置かれた後で引き揚げられ、爆撃機の爆弾倉に収納。標的に向けて運ばれていった。しかし45年当時、ここは広々とした基地であり、多くの作業施設やテント、航空機、人員で埋め尽くされていた。第2次

現在はほとんど忘れ去られたこの場所は、太平洋に浮かぶテニアン島にある。当時、米空軍のB29爆撃機はこの島から飛び立ち、日本への核攻撃を実施した。テニアン島は北マリアナ諸島の一部で、現在は米国の自治領だ。2020年、のんびりとして飾り気のないこの熱帯の楽園には3000人が暮らす。数えるほどのレストランと2~3軒の小さなホテル、ガソリンスタンドが1カ所ある。島の面積は101平方キロ。米軍が両島を必要としたのは、最新鋭のB29爆撃機によって約2400キロ離れた日本本土への攻撃を可能にするためだった。そして44年の夏、記録的な数の戦死者を出した3カ月に及ぶ戦闘の後、米軍は島を制圧。直ちにB29のための大規模な飛行基地を建設した。原爆の組み立てを行った施設の跡地で、私とガイドはレンタカーに乗り、旅の次なる目的地を目指す。少し車を走らせると、地面を掘り抜いて作った「ピット」に着く。完成した原爆はいったんピットの底に置かれた後で引き揚げられ、爆撃機の爆弾倉に収納。標的に向けて運ばれていった。しかし45年当時、ここは広々とした基地であり、多くの作業施設やテント、航空機、人員で埋め尽くされていた。第2次大戦中の一時期には、世界で最も多忙を極めた飛行場だった。今回私を案内してくれたドン・ファレル氏はカリフォルニアの出身で、70年代に太平洋諸島へ移り住んだ。地元の人々からはテニアン島の歴史の第一人者とみられている。同氏は45年当時の島の状況を詳細に調べ、「Tinian and the Bomb(仮題:テニアン島と原子爆弾)」と題した著書にまとめた。ノースフィールド基地のエーブル滑走路。先端までの距離はそう長くはない。まさにこの滑走路から、エノラ・ゲイと名付けられたB29が飛び立っていった。1945年8月6日、午前2時45分のことだ。同乗するファレル氏が、75年前にパイロットが見ていたであろう景色を説明する――基地のテント群、兵士たち、出撃を待つ数十機のB29。

 

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