「新古今集」の切継作業段階だった承元元年に、後鳥羽院によって建立された最勝四天王院という寺院の障子に全国から46の名所を絵に描き、それに院、定家を含む歌人10名が各名所の和歌を詠み(「最勝四天王院障子和歌」と言われます)、その中から名所ごとに一首を選んで障子絵に添えるという催しが行われました。その中で定家が「生田の森」を詠んだ、について、後鳥羽院の著「後鳥羽院御口伝」で詳しく語られています。この歌は、「生田の森」の撰に漏れましたが、そのことについて定家が、〈…心あるやうなるをば庶幾せず、ただ詞・姿の艶に優しきを本躰とする。……定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、美しく言ひつづけたれば、殊勝の者にてあれ〉
一首目にある「水無瀬川」は、大阪府三島郡を流れ淀川に注ぐ川で、院の離宮が設けられ歌会なども行われました。遠景の山の麓から続いて薄墨のようなぼかしがかかる霞に静まる川辺の春の夕暮れを描き、その情趣は「枕草子」以来の伝統とされる秋の夕暮れにまさると宣言した歌です。歌の後半は帝王ぶりとも言える決断を示しています。 この歌中で「嘆き」とあるのは、当日のことを記録する「順徳院御記」では、「定家述懐歌」とあり、定家の詠んだ下句が後鳥羽院の逆鱗に触れ、しばらく閉門とされたとあります。院の怒りを買ったのは、「嘆きの煙」が火葬の煙を連想し、晴の会に相応しくないと判断されたためです。しかし、それは定家自身にも予想できたことと思われます。「新古今集」切継時の「生田の森」の歌での定家の憤懣は、そのこと・その時だけではなかったのだとも推測できます。以後、定家は後鳥羽院に直に会うことはありませんでした。定家が後鳥羽院の勘気を受けた翌年の承久三年、後鳥羽院は、鎌倉幕府の倒滅を図りつつ敗れた承久の乱の結果、隠岐に配流になります。この時、院は42歳、定家は60歳でした。しかし、院は隠岐に移された後も、「新古今集」の精選だけでなく、いくつもの和歌についての営為を残しています。
「百人一首」の歌人や和歌には、平安時代以来の秀歌撰と呼ばれるものとの一致もありますが、「時代不同歌合」との一致は特に注目されます。後鳥羽院によるこの作品を定家が見て、互いに人生で和歌を重んじてきた身として、おおいに刺激を受けたと見る妥当性は小さくないように思えます。
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📙「小倉百人一首」には、水無瀬離宮(大阪府島本町)で仕えた二人の院への鎮魂が籠められたと言われます。「六歌仙」「三十六歌仙」「伊勢物語」などと同様に「不遇な」歌人の鎮魂を図ったんではないでしょうか⁉️
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