甲子園に響くサイレン 特攻、外地で散った選手への思い
スポーツライター 浜田昭八
全国高校野球選手権は毎年、終戦記念日の8月15日が大会期間にあたり、会場の甲子園では正午にサイレンが球場に鳴り響く。戦争を知らない球児も、空襲警報のサイレンの記憶が残っているオールドファンも、その場で直立不動になり、戦没者に黙とうをささげる。
キャッチボールをしてから出撃した22歳・石丸進一
毎年終戦記念日の前後は全国各地で同じように黙とうをささげる。メディアでも太平洋戦争末期を回顧する番組が多くなる。雨中の神宮外苑での学徒出陣の行進などはテレビによく登場する。
戦火をくぐり抜けて生還した学徒は何パーセントいるだろうか。末は博士かノーベル賞かの秀才や、野球界、ゴルフ、テニス界などを揺るがす俊英たちの安否はいかに。無事に生還しても、戦後の混乱期をどう生き抜いてきたのか。
東京ドーム(東京・文京)の駐車場の入り口近くに、戦前のプロ野球界で活躍し、大戦で戦没した野球人を悼む「鎮魂の碑」がある。名前しか知らないヒーローばかりだが、訪れて手を合わせるたびに涙がこぼれる。日本プロ野球創成期の名古屋(現中日)で投げた石丸進一投手を巡る話が悲しい。
同投手は大戦が激化した1943年に20勝をマークした。この年の12月に召集され、航空少尉として軍務についた。そして終戦の3カ月前の45年5月11日に出撃命令を受け、帰らぬ人となった。特攻機で飛び立ったのだ。
実兄藤吉(元松竹ロビンス助監督)の追憶によると、進一は出撃直前に「敢闘」の鉢巻きを巻いて僚友とキャッチボールをしたそうだ。残した遺書には「野球をやれたこと幸せ。忠と孝を貫いた一生。24歳で死んで悔いはない」とあった。
当時の慣例で記した数え年。実際は1922年7月生まれだから、まだ満22歳だったはずだ。「完投」の鉢巻きを巻いて、野球人生を全うしたかったのではないか。本心を素直に口にできなかった風潮を、故人に代わって責めたい。
阪神の監督になっていたか……、慶応ボーイの小川年安
この人は間違いなく監督になると見られた人物も、碑に名を連ねている。小川年安。1936年に創設して間もない阪神タイガースへ入団し、正捕手、3番打者で活躍した。
打撃、守備の技量もさることながら、広島・広陵中━慶応大で主将を務めたキャプテンシーも高く評価された。阪神は矢野燿大監督が今季限りで退任すると早々に公表した。時代は大きくずれているが、仮にその機に遭遇したなら、OB小川は文句なしに後任監督の候補に挙げられただろう。
同氏の令息と話す機会があった。高校で野球をした人なので、人生と野球の先輩を慕う気持ちは強い。令息によると、亡父の戦没地は西ニューギニア。のちに同地を訪れ、「父はこの風景、この花を見て、何を感じたのだろう」と感慨にふけったそうだ。同じような思いを抱く人が、世界に何千万、何億人もいると思うと切ない。
甲子園のサイレンに空襲警報を思い出す人もまだいる
大戦は民間人の心身にも大きな傷を残した。原爆が投下された広島、長崎だけでなく、東京、大阪、各地の中小都市もB29の空爆で焼かれた。地上戦が展開された沖縄は、さらに悲惨だった。
戦後、沖縄の野球を全国レベルに引き上げる功績をあげた沖縄水産高の栽弘義監督の背中には、戦火で焼かれた大きなやけどの痕が残っていた。もし球児たちがプロ入りしたなら、キャンプで何度も沖縄を訪れることだろう。沖縄の人たちの苦しみに思いをはせてほしいと思う。
1死、2死、刺殺、補殺、挟殺など、野球には物騒な用語が多い。それと平和なゲームの内容との落差を楽しんで受け入れることができる今の幸せ。それと同時に、プレーボールを告げる甲子園のサイレンに、空襲警報を連想する老齢者がわずかに存在するのも事実。忘れないでおこう。
(敬称略)