昔々、戦国時代も終わりの頃、武士が主君の御前で、『将門記』や『平家物語』などの軍書を朗読し、解説する「講義」が広く行われた。徳川家康に『太平記』を講義した赤松法印は、その評判が広まって諸侯にも呼ばれ「太平記読み」と称せられた。
江戸時代に入ると、このスタイルが「講釈」と呼ばれ、浪人の大道芸と変じ、のちには庶民向けの演芸となった。「講談」という呼び名は明治に入ってからのものである。扱う題材は、中世以降の軍記文学を手始めに、説話集、中国古典、伝奇物語、大名家のお家騒動、江戸末期には世話物も加わった。「今、落語家は900人以上、講談師はその一割の90人しかいないが、江戸の昔は講談師が800人いたといいます」と松之丞改め六代目神田伯山が高座で胸を張る。明治17年の『東京案内』には寄席が87軒あり、その大半が講談席だった。だが、講談の人気も日清・日露戦争期をピークに衰退の一途をたどる。 活動写真など新しい大衆娯楽の台頭に押され、明治末期には「こういう古い、工夫のない芸は衰えるのが当たり前」と娯楽雑誌に書かれている。そして大正12年の関東大震災で講談席が激減。以来、80年以上にわたって講談の低迷が続いたのだった。
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ソース: Newsweek_JAPAN - 🏆 131. / 51 続きを読む »