たしかに姫路城は美しい。石垣とその上に建つ白亜の櫓や門、塀が複雑に重なる景観は、失われた城郭の古写真や復元図と比較しても、唯一無二の美しさだ。特に大天守を囲んで3棟の小天守が立体的に重なり合う姿は圧巻である。西国大名と大坂の豊臣秀頼を監視するための城
そういう前提で輝政が築いたのが、いま見る姫路城で、慶長14年(1609)までには現存する白亜の連立天守が完成した。三重の堀を左回りのらせん状にめぐらせ、城下町をも取り囲んだ総構えの城の原型が形づくられた。ところが、慶長18年(1613)に池田輝政が死去したのち、元和2年(1616)に8歳の光政が家督を継ぐと、幼少では枢要の地は守れないという理由で鳥取に移封され、徳川四天王のひとり本多忠勝の長男、忠政が15万石を賜り桑名から入封。この時代に西の丸が造成されたほか、三の丸の御殿群や各所の枡形虎口が整備されるなど、姫路城の全容が整った。 論より証拠で、内曲輪を天守に向かって歩いてみたい。昭和13年(1938)に設けられた桐外門(歴史的な門とは形状も大きさも異なる)を抜けた先の広大な敷地が三の丸で、江戸時代には東から、城主の休息所と迎賓館を兼ねた向屋敷、2代将軍徳川秀忠の長女、千姫の居館だった武蔵野御殿、藩庁で城主の居館でもあった本城が建ち並んでいたが、歩兵第十連隊の兵舎を建てるために、すべて撤去されてしまった。三の丸広場を抜け、有料区域に入ると二の丸で、釣鐘型の華燈窓で飾られ、金の飾り金具が打ちつけられるなど、古風な装飾の「菱の門」に迎えられる。だが、その前に門の東方の石垣を見ておきたい。自然石がほとんど加工されずに積まれた古式の野面積みで、大型の築石が混在している。その隅角部は、直方体の石の長辺と短辺を交互に積み重ねる算木積み(この技法は関ヶ原の戦い後に急速に発展した)がまだ見られない。つまり、羽柴時代に築かれたことがわかる。狭い将軍坂。奥に見えるのが「はの門」。
姫路城の内曲輪、特に姫山は、元来の地形や高低差を活かしながら小さな曲輪をひな壇上に並べた、羽柴時代の縄張りを活用して築かれている。事実、いま確認したほかにも、天守を囲む乾曲輪、西北腰曲輪、北腰曲輪などは、羽柴時代の石垣に支えられている。つまり、土木技術が未熟だった時代の構造を活かしたために、迷路のような通路ができたのだ。したがって、たとえば北腰曲輪の「ハの渡櫓」の軒先が美しい孤を描いているのは、それが乗る石垣が湾曲しているためだし、上山里曲輪東方の太鼓櫓の床面が大きく傾斜しているのは、ゆがんだ石垣の上に建っているからなのだ。にの門を抜けると天守が身近だが、すぐ180度転回する。
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