日曜に書く

論説委員・森田景史 カツカレーと「猛牛」哀歌

近鉄バファローズのヘルメット
近鉄バファローズのヘルメット

カツカレーは、東京・銀座の発祥という。

カレーとカツレツ(あるいはトンカツ)、相性抜群の取り合わせはいわゆる「コロンブスの卵」だが、料理人の創意が生んだ卵ではなかった。

西洋料理店『銀座スイス』のウェブサイトに、千葉茂という元プロ野球選手が生みの親として記されている。戦前戦後に活躍した東京巨人軍の二塁手で、華麗な守備と右方向への流し打ちが「名人芸」とうたわれた人だ。同店をひいきにした千葉はある日、メニューにない注文をした。

千葉茂の放った快打

「カレーライスにカツレツを乗っけてくれ」

突飛(とっぴ)な発想は店側を驚かせたが、一つ皿の上で結ばれた2つの味が人々の舌を喜ばせるのに時間はかからなかった。千葉が放った会心の一打は、やがて店の看板メニューとなる。プロ野球がまだ1リーグ制だった1948(昭和23)年頃の話だ。

千葉は巨人の主力として川上哲治らと一時代を画しながら、指導者としての事績は芳しくない。59年に監督を引き受けた近鉄パールスは当時、低迷続きでパ・リーグの「お荷物」と呼ばれていた。

球団の新たな愛称となった「バファロー」は、千葉の異名である「猛牛」にあやかったものだ。千葉が率いる近鉄は3年連続の最下位に終わり、監督辞任とともに愛称は「バファローズ」に変わった。

筆者にとって近鉄とは浅からぬ縁がある。父に連れられ、プロ野球を初めて観戦したのは44年前、大阪・日生球場での近鉄―ロッテ戦だった。

「鉄道」と「球団」の相性

小紙運動部の記者となった21年前、最初に担当したのも近鉄(当時は大阪近鉄)だった。2004年にはオリックスとの合併に伴う球団消滅を、番記者として見届けている。

近畿日本鉄道を親会社とした近鉄球団と、阪急電鉄を母体とした阪急球団の系譜を継ぐオリックスでは、チームの気風も選手の気質も違う。水と油どころか「まぜるな危険」の危うさに満ちていたことは、合併話に猛反発する近鉄の選手やファンを見れば明らかだった。

04年のシーズンは、昼夜を問わず親会社の幹部取材に明け暮れたのを思い出す。「毎年40億円の赤字」は公にされた数字だが、実際はグループ企業からの協賛金10億円を差し引いた額だという。マイナス50億円。

「それを出してくれるのは、誰やと思う?」。近鉄本社の幹部は筆者にこう問いかけた後、一拍置いて続けた。

「毎日、自動券売機に小銭を入れて、切符を買ってくれるお客さんや。赤字を続けるのは、その小銭をドブに捨てるのと同じことなんやで」

球団という最良のコンテンツを持ちながら、沿線の客足を球場に向けることしかアイデアがない。それが当時の鉄道会社の限界だったか。それとも、もともと「鉄道」と「球団」の相性が芳しくなかったのか。南海、阪急、近鉄という在阪の鉄道会社は、阪神を残して球団経営から手を引いた。

残ったのは、近鉄が頂点を知らぬまま球団史を閉じたという苦い敗戦の譜だけだ。カレーとカツを出会わせた千葉の神通力も、「バファローズ」と「日本一」の相性だけは変えられぬまま現在に至る。

近鉄の球団消滅を最後に、筆者はプロ野球取材を離れた。それから17年、オリックスが引き継いだ「バファローズ」は今季の日本シリーズでヤクルトに敗れ、またも日本一を逃した。

「日本一」はいまだ遠く

一つだけ安堵(あんど)を覚えたことがある。ヤクルトの歓喜の輪の中に、懐かしい顔があった。坂口智隆。03年にプロ入りした37歳は、現役選手の中で「近鉄バファローズ」に在籍した履歴を持つ最後の一人だ。新人の頃の坂口に筆者は取材したはずだが、何を聞いたか、いまとなっては思い出せない。確かなことは、坂口が思うに任せぬ悪縁から解放され、初めて美酒を味わったということだ。

投手部門の4冠と沢村賞を手にした山本由伸。鳴かず飛ばずの打棒が6年目で目覚め、本塁打王となった杉本裕太郎。投打の太い柱を擁しながら辛酸をなめたオリックスに、何が欠けていたのか分からない。今月で没後19年となる千葉も、あの世で思案投げ首に違いない。

「バファローズ」が遠い向こう岸の「日本一」と結ばれる日は、いつか来るのだろうか。(もりた けいじ)

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