瀬古「私が一番寂しい」 福岡国際が今大会で幕

トップランナーのみが走るエリートマラソンの代表的存在として、数々の名勝負が繰り広げられてきた「福岡国際マラソン」が、12月5日開催の第75回大会を最後に幕を閉じる。過去に世界記録が2回誕生し、世界で初めて「サブテン」(2時間10分切り)が達成されたのも福岡国際だった。五輪や世界選手権の国内代表選考会の一つとして、日本の選手が世界へ羽ばたくきっかけにもなってきた大会。近年は海外の高速レースを優先するランナーが増えたことに加え、スポンサー離れによる財政難もあって伝統に終止符が打たれるが、マラソン界の発展に果たした功績は大きい。

2回の世界記録

長い歴史の中で大会の起点となっているのが、昭和22年に行われた「金栗賞朝日マラソン」。NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でも生涯が描かれた「日本マラソン界の父」、金栗四三(かなくり・しそう、1891~1983年)の功績をたたえるため、出身地である熊本県で開催された。戦後の復興とともに、マラソンで日本を元気にしようというのが開催の目的だった。

大会はその後、開催地や名称をたびたび変更しながら、29年からは外国籍のランナーも招待参加するようになり、日本のマラソンの国際化の先駆けとなった。49年の第28回大会から名称も「福岡国際マラソン」となり、冬の風物詩として親しまれるようになった。

大会が世界的にも注目されるきっかけになったのが、42年の第21回大会。自己記録が2時間18分台で無名に近い存在だったクレイトン(オーストラリア)が2時間9分36秒で優勝し、長く「人類の壁」とされてきた2時間10分を初めて突破したからだ。56年の第35回大会でもキャステラ(オーストラリア)が2時間8分18秒の世界新記録で優勝。世界記録が2回誕生した高速コースとして、世界のトップクラスの選手が多く参加するようになった。

「世界遺産」に認定

そうした功績が高く評価され、昨年には世界陸連から陸上の〝世界遺産〟ともいえる「ヘリテージプラーク」に認定された。陸上界の発展に寄与した大会や人物に授与されるもので、世界陸連のセバスチャン・コー会長も「世界の陸上史、そしてロードランニングの発展に素晴らしい貢献を果たした」とコメント。日本で開催されるレースとしては、正月の「東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)」に次いで2例目だった。

そんな伝統ある大会も今回の第75回大会が最後となる。近年は国内でも「ワールド・マラソン・メジャーズ」の一つである東京マラソンに有力選手が多く集まるようになって注目度が低下。スポンサー離れもあって財政的にも大会を継続していくことが困難になったためだ。

福岡国際と同様にエリートマラソンとして開催されてきた「びわ湖毎日マラソン」も、今年2月の第76回大会を最後に滋賀県での開催が終了。来年からは大阪マラソンと統合し、市民参加型の大規模マラソンに形を変える。福岡国際もそうした時代の波にのまれる形になった。福岡国際に10回以上出場してきた川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)は「びわ湖毎日と福岡国際が終了し、国内のエリートマラソンが大阪国際女子だけになってしまうのは本当に寂しい」と感想を漏らした。

語り草の名勝負

「この大会がなくなるのは、私が一番寂しい」。そう強調するのは、福岡国際で3連覇を含む4度の優勝経験を持つ日本陸連の瀬古利彦副会長だ。

瀬古は早大3年だった53年の第32回大会で初優勝。翌年の第33回大会では40キロすぎから双子の宗茂、猛兄弟と三つどもえの激しいデッドヒートを繰り広げた。ゴール地点の平和台陸上競技場に入っても3人の争いが続き、残り200メートルで瀬古がスパート。追いすがる宗茂をわずか2秒かわして連覇を達成した。

瀬古は58年の第37回大会でも、イカンガー(タンザニア)と激闘を演じた。39キロ付近で飛び出したイカンガーの背後にぴたりとつけ、勝負は競技場へ。最後の直線100メートルの鮮やかなスパートで抜き去り、4度目の優勝。今でもマラソンの名勝負の一つとして語り継がれている。瀬古は「福岡国際があったからこそ、私の成長があった」と述懐する。

日本のマラソン界は大きな転換期を迎えているが、今年2月の最後のびわ湖毎日では鈴木健吾(富士通)が日本選手で初めて2時間5分の壁を破る2時間4分56秒の日本記録を樹立。東京五輪では大迫傑(ナイキ)が6位入賞を果たし、お家芸復活への足掛かりを作った。今後もマラソンの歴史は続いていく。最後の福岡国際でも、3年後のパリ五輪につながるような選手の誕生が期待されている。 (丸山和郎)

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