「トキワ荘」秘話 ~石ノ森や赤塚が少女漫画を描いたわけ~

「トキワ荘」秘話 ~石ノ森や赤塚が少女漫画を描いたわけ~
手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫…
日本を代表する漫画家たちが若き日をともに過ごした豊島区のアパート「トキワ荘」。

「鉄腕アトム」や「オバケのQ太郎」「サイボーグ009」「天才バカボン」
少年漫画の印象が強いかもしれませんが、トキワ荘の漫画家の多くが当時、少女漫画を描いていたことをご存じでしょうか。
のちに女性の価値観や生き方にも影響を与えたとされる、昭和30年代のトキワ荘を振り返ります。
(首都圏局 記者 戸叶直宏)

元住人の漫画家「ひたすら漫画を描きたい人たち」

「石ノ森さんはドアを開けっぱなしにして、レコードをかけながら漫画を描いていました」
「漫画を一生の仕事にしようと夢を持ち、ただひたすらに漫画を描きたい人たちが集まったのがトキワ荘だったんです」
こう語ったのは、漫画家の水野英子さん(81)。
「星のたてごと」や「白いトロイカ」が代表作で、女性の少女漫画家の草分けと言われています。

トキワ荘には昭和28年の初めに手塚治虫さん、年末に寺田ヒロオさんが入り、その後、藤子不二雄のコンビ、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんなどが次々に入居しました。

水野さんが入ったのは18歳だった昭和33年。
石ノ森さんや赤塚さんたちと7か月を過ごしました。

「リボンの騎士」の編集者

なぜトキワ荘に入った漫画家の多くが少女漫画を描くようになったのか。

そこには、1人の編集者の存在がありました。
現在の講談社に入社し、雑誌「少女クラブ」の編集者となった丸山昭さんです。
当時「リボンの騎士」を連載していた手塚治虫さんの担当でした。
のちに石ノ森さんや赤塚さんも担当し、初期のトキワ荘で新人漫画家を発掘し、育て上げた編集者として知られる人物です。

水野英子さんが描いた原稿を手塚さんの部屋で偶然見つけ、トキワ荘に呼び寄せたのも丸山さんでした。
水野英子さん
「手塚先生が新人漫画家の審査員をしていた関係で、先生の部屋にあった私の原稿をたまたま見つけたそうです。そのときに手塚先生が『かわいい絵を描くから育ててみたら』と勧めてくれて、丸山さんが私に手紙を送ってくれたのがきっかけでした」

「最初は小さなコマ漫画を送ってほしいと言われてやり取りしました。私には父がいなかったので父親代わりじゃないですが、丸山さんはすごく丁寧に指導してくれて面倒見のいいかたでした」

描くスペースを求めていた若手漫画家たち

当時、少女漫画の人気が出始めた時期でしたが、描き手は十分にいませんでした。
そうした中で編集者の丸山さんが注目したのが、トキワ荘にいた漫画家たちだったのです。
それは仕事があまりなかった若手漫画家たちにとっても大きなチャンスになったといいます。
水野英子さん
「手塚先生たち大先輩が描いていた少年誌には、新人が入り込む余地はありませんでした。一方で少女漫画はページを増やそうとしていた時期だったので描き手はあまりおらず、女性で有名なのは長谷川町子さんくらいだったそうです」

「丸山さんが持ってきた仕事は誰も断りません。丸山さんがトキワ荘に来ると、ワーっとみんなで取り囲んで部屋で談笑して『これは石ノ森に描かせようか』と話し合ったりしていました。当時は描くスペースがあることが本当にラッキーだったんです」

石ノ森「少女物 なかなか描けない」

ただ少女漫画を描くことに対し、最初は抵抗感もあったそうです。
赤塚さんや石ノ森さんのエピソードをこう振り返りました。
水野英子さん
「赤塚さんは背が高くて“優男”だからぴったりだと編集者は思ったようですが、リアルなドラマを描こうとすると難しかったみたいです。やっぱりギャグ漫画のほうが合っていたんですよね。石ノ森さんも『俺は少女物なんてなかなか描けない』とぼやいていたそうです」

「当時は編集者も男、漫画家も男で、どうすれば女の子に楽しんでもらえるのかみんな悩んでいました。映画や雑誌などの資料を参考にして、皆さん努力して描いていたのを覚えています」
当時は、漫画自体が「悪書」と言われていた時代でした。

少年漫画が小説より一段下に見られる中で「少女漫画」ということばはまだなく「少女物」と呼ばれていて、さらに一段下に見られていたということです。
水野英子さん
「男性の価値観が支配的な時代だったので、フリフリの服がかわいいとか複雑な感情で泣かせるストーリーといった女性が好みそうな価値観は、あまり受け入れられていませんでした」
トキワ荘で大成した漫画家たちも「昔、少女漫画を描いていた」とはあまり口にしませんでしたが、少女漫画家をからかうことはなく、同じ漫画家として対等に見てくれたといいます。
むしろ女性の洋服やドレスを描くのがうまかった水野さんの絵をこっそり参考にしていたそうです。

新たな技法が次々に

トキワ荘の住人たちが少女漫画に挑戦する中で、新たな技法も生み出されました。

若手の漫画家たちにとっては腕を磨く格好の場で、意欲的な表現方法を試すことができたからです。

下の漫画は、石ノ森さんが昭和36年に描いた少女漫画「龍神沼」です。
龍神祭を見に来た少年が森で着物姿の不思議な少女に出会い、心ひかれていく物語ですが、このページではセリフのないコマが連続しています。
セリフを入れずに周囲の情景を細かく描くことで、キャラクターの心理を描写する技法が使われました。
水野英子さんの作品「銀の花びら」では、目をデフォルメして大きく描き、その中に星を入れる技法を取り入れました。
目に「心の窓」の役割を持たせ、その描き分けによって感情を表すもので、少女漫画の代表的な技法として広がりました。
水野英子さん
「目の中の星が十字だとロマンチックな思い、ペケ(×)だと危険を感じた時。だんだん進化していろんなものが目の中へ入りました。月も星も太陽も入っているような大きな目を描く人もいました」
大人の恋愛を描いたラブロマンスの漫画を次々に発表した水野さんは、当時の思いについてこう打ち明けました。
「戦前、女性が押さえつけられていた生活から解放されたいという意識があり、人間の在り方について自分の理想のようなものを描いていました」

“おてんば娘”「女性の価値観や生き方に影響」

少女向けメディアの歴史に詳しい専門家は、少女漫画の広がりが“女性の価値観や生き方”に影響を与えたと話します。
甲南女子大学 増田のぞみ教授
「戦前の少女向け小説などは、日常生活や悲しい物語をテーマにしたものが多かった。水野先生たちの時代の少女漫画は、男の子とも対等にケンカする『おてんば娘』の話や、恋愛や人間関係をめぐるファンタジー、海外の歴史など学校や家庭では教えてもらえない多様な生き方や知らない世界を示すものでした」

「大人向けの映画や小説と違って漫画はわかりやすいので、少女たちに急速に受け入れられ広まっていきました。いわゆる団塊世代の少女たちは少女漫画を通してたくさんのキャラクターに出会って多様な価値観を知り、自分の人生を主体的に切り開くことや選択肢を広げて考えることができるようになったと考えています」

現在の漫画の“型”が確立

この時期には、少女向け雑誌の「少女クラブ」「少女」「少女ブック」がそれぞれ漫画のページを増やし「なかよし(昭和29年)」や「りぼん(昭和30年)」も創刊されました。
増田教授は、トキワ荘の若手漫画家たちが少女漫画に取り組んだことの意義を次のように話しました。
甲南女子大学 増田のぞみ教授
「編集者は“計算できる”存在としてトキワ荘の若手漫画家を頼り、互いに高め合うトキワ荘の文化も相まって、コマ割りの自由さなどの表現技法、勧善懲悪だけではない複雑なストーリーなど、現在の漫画のフォーマットとなる型が確立した時期だと言えます」

よみがえった漫画の聖地で

跡地近くに復元された施設で開かれている「トキワ荘の少女マンガ」と題した特別展(~12月5日)を訪れた水野英子さん。
「少女漫画は少年漫画のお姉さんなんです」と話し、トキワ荘の仲間が少女漫画で培った技法を少年漫画に持ち込んで活躍したことを懐かしそうに振り返りました。
水野英子さん
「この線や花は赤塚さんが、このライオンは石ノ森さんが描いたんですよ…」
赤塚さんや石ノ森さんと合作で描いた作品を見つめるそのまなざしは、あの時代に戻ったように輝いて見え、時を超えて語り合っているようでした。
首都圏局 記者
戸叶直宏
2010年入局
福岡局、横浜局を経て現所属
豊島区や板橋区を担当