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北京五輪以来13年ぶりに優勝したソフトボール日本。チームトップの3本塁打を放った投打の二刀流、藤田
「テングになったらいかん」が口癖。グラウンドの草やゴミを放っておくと、「そんなことで良い選手になれるか」と叱られた。「どんな優秀な選手でも1人で試合はできない。人と人のつながりに感謝しなさい」。佐賀女子高(佐賀市)ソフトボール部で監督をしていた久保田昭さんは、そういう指導者だった。
藤田選手は2006年春に長崎県佐世保市の中学を卒業後、故郷を離れて同校に進学し、久保田さん宅に下宿した。1年生で4番に起用され、同年の全国高校総体を制覇。ソフトボール漬けの日々を送った。
09年に実業団入りしたが、最初の数年はレベルの高さに付いていけなかった。試合にも出られず、「自分のソフト人生はここで終わりか」と思うこともあったが、必死に練習を続けた。
それでも一度、合宿先から逃げ出したことがある。久保田さんに「やめたい」と相談すると、何も言わずに耳を傾けてくれた。その後、所属チームと話し合って競技を続けることになったと報告すると、久保田さんは「そうか。よかった」と言って涙を流した。
久保田さんの妻、英子さん(70)は、「個性が強い藤田さんを一番気にかけていた」と明かす。雑誌で藤田選手の記事を読み、「ここまでになったか」と笑みを浮かべていたという。
久保田さんは12年頃から脳
その時は五輪に出る自信がなく、返答に困った。だが、翌17年の4月、久保田さんが72歳で亡くなると、教え子代表の弔辞でこう誓った。「五輪に出場し、誰よりも輝きます」
思いを胸に臨んだ大舞台。初戦から3試合連続で本塁打を放ち、投げても2試合で8回2失点の好投。決勝の米国戦でも四回表に安打で出塁して先制のホームを踏むと、五回表に貴重な追加点となる適時打を放ち、右腕を突き出してガッツポーズ。誓い通り、ひときわ強く輝いた。