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東日本大震災は、10年前に起きた出来事の総称ではない。一変した日常、だれも経験したことのない大規模な復興、巨大な構造物、消える痕跡……。10年という歳月が起こしたそれらすべてが震災だ。被災地の小学6年の人生もまた、震災によって変わった。22歳、転機の春を迎える。
被災の6年生 同級生はいま
東日本大震災の受け止め方は、年代によって違うだろう。同じ教室で学んだ宮城と福島の小学6年の、その後を取材した。この春、社会へ第一歩を踏み出す人も、仕事を身につけ活躍している人もいた。多感な時期のつらい経験は、22歳になる彼らの支えであり続けた。
地元中学へ進学…宮城県南三陸町・戸倉小
当時の担任・市村俊幸さん(55)
地震の夜、雪の中で野宿していると、朝までたき火の材料を探してきてくれたり、大量の飲み水を運んでいた私を手伝ってくれたり。いまでもみんなに感謝しています。ありがとう。
[夢]感謝の気持ち奏で…小野寺みなほさん(ピアニスト)
夢だったピアニストとして、横浜市で活動している。音楽教室の講師などアルバイトを掛け持ちする生活だが、「やりたいことをしている」と充実した日々だ。
津波で、母の運営するピアノ教室と自宅が流された。避難所となった中学校にあったピアノを弾き、避難者たちを落ち着かせた。
5か月遅れの卒業式では、合唱の伴奏をした。「私のピアノでみんなの歌が誰かに届いたらいいなって。頑張っているよ、と伝えたかった」
3歳の頃から
プロのピアニストとして歩み始めたばかり。つらい時も、「あの時より苦しいことはない」と思って乗り越えている。「いつか東京ドームで演奏したい」と目を輝かせた。
[研究]つながり 離れて実感…阿部穂菜美さん(大学生)
あの日、避難した高台から、津波にのみ込まれた町を見た時だった。近くにいた大人のつぶやく声が聞こえた。「町1個、なくなっちゃった」。この言葉が我慢できなくて、言い返した。「これからは私たちが町をつくる番なんで、心配しないでください」
中学2年の時、被災地支援で招かれたロンドンの大英博物館でミイラを見て、衝撃を受けた。これがきっかけで、いまは東京の大学で僧侶がミイラ化した「即身仏」を研究している。春からは大学院へ進む。
古里を離れて暮らしたことで、人とのつながりが強く、ホッとできる南三陸の良さに気付いた。「震災以外で南三陸を知ってもらい、多くの人に訪れてほしい」
[家]仮設暮らし 契機に…渡辺伊吹さん(会社員)
南三陸町の木材加工会社でフォークリフトを操り、色合いや強度が異なるスギの丸太の中から顧客の注文に合う最適の1本を選ぶ。「地元のスギで、いい家を建ててあげたい」と話す。
高校卒業後、この道を選んだのは、中高6年間を過ごした仮設住宅での暮らしがきっかけだった。兄弟3人が一部屋で、壁は薄く、足音をたてないように歩くのにも気を使う日々。
震災で自宅が無事だった友達の家に遊びに行くたびに、「暮らしの匂いがして、自宅っていいな」とあこがれた。
入社4年。「木材は同じものがない。自分の手がけた木材で、住む人に安らぎを与えられるような家を増やしたい」と力を込める。
[憧れ]町の安全 自分が守る…佐藤浩成さん(消防士)
津波を逃れて避難した高台の神社で一夜を明かした。被害の大きさにぼう然としていると、知り合いのおじさんに諭された。「これから若いお前たちが、しっかりしなくちゃいけないんだぞ」。この経験が、町の復興に貢献しようと決心するきっかけになった。
津波で自宅は全壊。その後、何度も津波にのまれる夢を見た。朝起きると、全身が汗だくだった。
中高時代は野球部で体を鍛え、専門学校を経て地元の消防本部に採用された。いまは南三陸消防署で消火活動や救急支援の任務にあたる。「一人の犠牲者も出さない。みんなが無事に暮らせるように」。その思いで訓練を重ね、現場に向かっている。
[家業]サケ養殖 魅力発信…佐藤
貴大
さん(大学生)
3月に仙台市の大学を卒業し、南三陸で家業のギンザケ養殖を継ぐ。「やるなら覚悟を決めて」という父の言葉に、腹をくくった。
父の営む養殖施設は津波で被災した。父のために「機械で家の仕事を効率化したい」と考え、いったんは就職活動でロボットを製作する東京のIT企業から内定を得た。しかし、その時に気づいた。「実は家業を一番に考えている」と。
復興する地元の魅力を発信したいと、中高生の時には経済協力開発機構(OECD)の教育プログラムで、町の伝統芸能「
「南三陸には強い思い入れがある。南三陸と養殖の魅力を伝えていきたい」
広域避難で離散…福島県浪江町・請戸小
当時の担任・田中和美さん(60)
津波で家を流され、原発事故で友達とも離ればなれになり、大変な歳月だったでしょう。でも、つらい経験をした分、強くなっているはず。自分らしく道を切り開いていってください。
[設計]戻る住民のために…大塚斗詩紀さん(大学生)
小学校の卒業文集に記した将来の夢は「建築士」。
今春、いわき市の建設会社に就職して、夢の実現に向けて歩み出す。
津波で自宅が流された。避難先で祖母が倒れて、亡くなった。同市の中学では当初、支援物資でもらったカバンをからかわれ、つかみ合いになったが、「いわきになじまないといけない」と思い、請戸のことを考えないようになった。
夢は持ち続けた。大学の建築学科に進み、たまたま入ったゼミの市岡綾子講師が、浪江の震災遺構検討委員だった。卒業設計の題材に、請戸小の校舎の模型作りを勧めてくれた。「あなたにしかできない」という言葉に背中を押された。封印していた郷里への思いを解き放った。
約4か月かけて縮尺50分の1の模型を作り上げた。完成すると涙があふれた。
浪江の避難指示は4年前に一部解除された。まだまだ少しずつだが、町民が戻ってきている。「いつか町に帰る人が安心して住めるような家を造れたら」と願っている。
[継承]地域の宝 守り抜く…横山和佳奈さん(大学生)
小学校の頃から音楽の授業が好きだった。小学4年で始めた豊漁・豊作を願う伝統演舞「田植え踊り」は、震災後も仮設住宅などで披露してきた。
2017年3月に請戸の避難指示が解除されてからは、復活した「
元在校生の代表として町の震災遺構検討委員に選ばれ、請戸小の保存や活用を訴えた。避難者たちと話す中で、「小学校が、住民と地区とを結びつける存在になっている」と感じたからだ。願いはかない、請戸小は保存されることが決まった。
[故郷]懐かしい波の音…松本祐輔さん(カフェ店員)
時折、請戸に足を向ける。津波にさらわれた自宅跡は雑草が生い茂るが、穏やかな波の音は昔と変わらない。「悲しさより、懐かしさがこみ上げてくる」
聴覚が敏感すぎる症状で、幼い頃は雷にうずくまることもあった。そんな自分に、請戸小の仲間は優しく接してくれた。縄跳びが上手な仲間たちに憧れて、難しい技にも一生懸命に練習して挑戦した。
震災後は家族で宮城県村田町に避難し、仙台市の専門学校へ通った。いまは同県内の就労継続支援事業所が運営するカフェで働く。
もうすぐ請戸より宮城県で過ごす期間の方が長くなるが、浪江に帰りたい思いは変わらない。「ここでは波の音が聞こえないから」
[恩返し]多くの支援に決意…長峰隼さん(大学生)
震災では多くの人に助けられた。地震直後、学校裏の大平山に避難したところを、通りかかったトラック運転手が避難所まで乗せてくれた。母は津波に巻き込まれたが、消防の人に救助された。避難所では、炊き出しや物資配布などで大勢の役場職員や自衛隊員が寄り添ってくれた。
新潟県南魚沼市に家族で避難し、中学1年の途中でいわき市に移った。その頃、「将来の夢」がテーマの作文に「公務員」と書いた。
いま福島大で行政学を学んでいる。研究施設誘致や移住・定住の促進など、復興の可能性を模索する。「あの日助けてくれた人たちのように、地元に貢献したい」と思い続けている。
[新天地]外の世界 経験糧に…舛倉健斗さん(会社員)
小学校で始めた野球は、家族と避難した埼玉でも続けた。高校は福島に単身で戻り、強豪・小高工業高(現小高産業技術高)でプレーした。卒業後は再び福島を離れて、愛知のトヨタ自動車の工場で働いている。地元の高校に進み、卒業後は東電に勤め、気心の知れた仲間と楽しく暮らす――。原発事故前に漠然と描いていた人生とは違ったが、新天地でも古里を思う気持ちは変わらない。
むしろ地元から離れたことで、ずっと浪江にいたらなかなかできないような貴重な経験ができたと思っている。
「自分はまだ若い。浪江の外の世界をたくさん見て、色々なところで色々な人と触れ合いたい」と語った。