店主に呼ばれていくと、店の奥に盛田さんがいました。そこで「ソニーはどうしてコンピューターを出さないんですか」と聞かれて困った様子をしていたのです。オーディオ事業部でCDの商品化に携わる中で、僕はデジタル技術について学んできましたので、助け舟を出すつもりで「すでにコンピューターの開発も頭に入れています。簡単に作れますよ」と横から説明しました。
すると、次の週の経営会議に呼ばれ、盛田さんから「コンピュータ事業部長をやってほしい」と言われました。僕は抵抗しましたが、「ソニーの中ではコンピューターの開発はこれからだ。だから誰がやっても同じだ」と言われ急遽(きゅうきょ)、オーディオ事業部長の職から離れることになりました。あるときIT関連の雑誌を発行するアスキー(現角川アスキー総合研究所)を創業した西和彦さんが訪ねてきました。事業部長の部屋の入り口に飾っていたCDの基板(部品を配置する板)をみて「すごいな、真ん中に圧縮したLSI(大規模集積回路)がある。ソニーがパソコンを作ったらおもしろいんじゃないですか」と言ってきたのです。 西さんが方々に呼びかけて、多くの電機メーカーが賛同しました。ビデオのフォーマット争いで対立していた松下電器産業(現パナソニック)も加わることになり、僕が大阪にある松下の本社と行き来することも増えました。
そのころのコンピューターといえば、業務用の大型装置でした。業務用コンピューターの実績があり、他に先駆けて家庭用も発売したNECの担当者からは「ソフトを開発するエンジニアがいないと苦労しますよ」と言われましたが、各社が協力して昭和58年、統一フォーマットの「MSX」が誕生しました。ソニー製コンピューターの商品名は「HiTBiT(ヒットビット)」。歌手の松田聖子さんが出演するテレビCMを流して話題になりました。一方、任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を同じ年に発売しました。同じコンピューターでありながら、ファミコンはゲームに特化したことで大ヒットします。最終的にMSXからは撤退することを決めましたが、今から考えると、その後のデジタル化に向けてのトライアルの時期だったように思います。MSXフォーマットを交渉する中で、国内外にコンピューター分野の人脈ができました。これらの方々とのネットワークを意識して維持したことで、デジタルやコンピューターに関する最新情報に常に触れることができ、私の大きな財産になりました。
コンピューター事業が失敗に終わったため、事業部長を解任されました。しばらく仕事がない状況が続きましたが、数カ月後、東京・芝浦でレーザーディスク事業をきちんと立ち上げろと命じられることになります。(聞き手 米沢文)
意味が分からない。何でこんな大嘘を書くんだ?ソニーはSMC-70という独自規格マイコンを先に出してたし、SMC-777がそこそこヒットしてたのにMSX事業に集中するために撤退したんだぞ。
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