1936年から終戦の1945年までの間、ここに送られ収容された人は、反ナチの政治犯から、ナチに「人種的、生物学に劣る」とされたユダヤ人やロマ、同性愛者など20万人を超える。当初はほとんどがドイツ人だけだったが、次第にドイツが占領した周辺諸国から人々が送られてくるようになり、1944年には、収容者の90%が“外国人”だったという。
飢餓や病気、強制労働や人体実験などで多くの人が亡くなった。絶滅収容所ではなかったが、ガス室の存在も後に明らかになっている。収容所の撤退準備に入った終戦間際には、軍事訓練を受けるなどして「危険人物」と見なされた約3000人が、SS(親衛隊)の指示でその場で殺害された。残った約3万人は北西部に向けて歩かされたが、途上でやはり多くの人が殺されたり亡くなったりする「死の行軍」だったという。 収容所は現在「追悼博物館」と名付けられているが、屋内展示だけではなく、収容所の敷地そのものを歩く“分散型”展示。必要ならば事務所棟で借りるオーディオガイドが3.5ユーロ(2024年3月現在)だが、“入場”は無料だ。長い壁に沿って歩くと、左手にタワーAと呼ばれる監視塔と入り口が見える。収容所の入り口の鉄門扉には、他の強制収容所にもある“ARBEIT MACHT FREI”(働けば自由になる)の文字。当時の“地獄”を隔てたこの門を入ると、扇状に広大な敷地が広がっており、砂利が敷かれた収容所棟跡が整然と並んでいる。正面には、約40メートルの高さの記念碑。上部に見える赤色の逆三角形は、囚人が政治犯であることを示す記号だったという。
どこを歩いても、どの展示を見ても、説明板を読んでも読まなくても心の重くなる場所だが、中でもいたたまれない気持ちになったのは収容所内の刑務所棟。独房が両側に並ぶ建物で、鉄格子がはまった独房の中には、そこで亡くなった人の写真や献花などもある。拷問や殺害に使われた器具も残されており、後ろ手に縛った人を吊り下げたといわれる木の棒は建物外の地面に刺さったままだ。ここで本当に、人間が人間を痛めつけたのだという事実は、その痕跡を見る人間にも突き刺さる。 ホロコーストの記念碑やロマのメモリアル、ゲシュタポ本部やこの強制収容所跡地を訪れるたびにすれ違ったのは、地元ドイツをはじめ隣国などからもやってくる教師と中高生の集団。戦争の歴史を後世につなぎ伝える現場だ。日本では2022年から学習指導要領に「歴史総合」が新設され、グローバルな視野に立った歴史の理解が期待されている。加害、被害の垣根を超えて、戦争を繰り返さないという同じ目標を共有するための歴史の学び。さまざまな場所を訪ねて多くの人が来た道を知ることが、ガザやウクライナのリアルタイムな悲劇を終わらせる一つの力になることを願ってやまない。
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