元プロレスラーの天龍源一郎(71)のアスリート人生の連載第3回は相撲人生。中学2年だった63年に二所ノ関部屋に入門し、貴ノ花や輪島、北の湖ら名力士たちとしのぎを削り、幕内昇進を果たしたが、その道のりは順風満帆ではなかった。【取材・構成=松熊洋介】
二所ノ関部屋に入門するため、天龍は中2だった63年の年末に上京。国技館のそばにあった両国中学校に移った。当時の両国中学校は他県から成績優秀者が集まるほどの進学校。「勉強はしなくていいから、迷惑かけたり、邪魔はしないでくれ」と忠告されたという。嫌みも言われ悔しかった天龍は、自分なりに勉強に打ち込んだが、地方場所では1カ月休むこともあり、すぐについて行けなくなったため「相撲で頑張ろう」と意識を変えた。 部屋では横綱大鵬を見て「均整のとれたいい体をしている」と驚いた。「横綱になれるかも」という思いで、力士生活をスタートさせたが、すぐに心は打ち砕かれた。朝3時半に起床。6時に終わり、冬でも屋上で水をかぶって汗を流した。「練習生3、4人のためにもったいない」と言われ、お湯は沸かしてもらえなかった。食事は前日の残った白飯にお茶をかけて食べ、塩おにぎりを持って学校へ。すぐに食べてしまい、目をこすりながら授業を受けた。田舎の家族のことを思い出し、屋上で涙することもあったという。天龍 同世代に先にいかれたのが悔しかった。自分もしっかりけいこしているのに、なんでみんなだけ勝っていくのだろうと不思議だった。
その時は気付かなかったが、振り返ると自分に原因があった。同じ二所ノ関一門でよくけいこに来ていた初代貴ノ花らはいつも泥だらけだった。「何でこいつらは必死になっているんだと思っていた。自分は少し格好付けたかったところがあったので、適当に手を抜いていた。全身全霊でやっていなかったのかもしれない」。勝てない時期が続き「好きで入ったわけじゃない、なじめなかった」と逃げ場を求めていたが、知らない間に「少々のことだったらしのげる」と耐え抜く精神も植えつけられていた。 どん底からはい上がり、体形、反骨心のある気質など昔の「天竜」に似ていることから「天龍」のしこ名で73年1月に新入幕。北の湖にも勝利した。最初は十両と行ったり来たりしたが、その後幕内に定着。前頭筆頭まで上り詰めた。「大鵬二世」と期待され、おぼろげだった「横綱になれるかも」という思いが、見えていた矢先、押尾川事件に巻き込まれた。(つづく=第4回は押尾川事件)◆天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)...
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