【千田嘉博のお城探偵】名古屋城の金鯱 家康が信じた力、今こそ

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【千田嘉博のお城探偵】名古屋城の金鯱 家康が信じた力、今こそ 名古屋城大天守の屋根の上の鯱は、金鯱として江戸時代からよく知られた。もともとの金鯱は木組みでつくった身の上に、寄せ木張りをして鉛板をかぶせ、そこに銅板を基盤にした金の薄板を張ってつくった。

愛知県の名古屋城は、「尾張名古屋は城でもつ」と江戸時代の民謡・伊勢音頭で唄われた日本屈指の城郭だった。徳川家康は1609(慶長14)年に名古屋築城を決意した。そして、江戸幕府は翌年から豊臣家とのゆかりが深い加藤清正などの諸大名に、天下普請として堀や石垣の土木工事を命じた。

このとき江戸幕府の将軍はすでに2代秀忠だった。しかし、名古屋城に関する最終決定は家康が行っており、名古屋城は家康の城の集大成だった。堀や石垣の工事が完了した1612(同17)年5月頃からは、幕府の直営で大・小天守の建築工事が本格化した。 名古屋城大天守の屋根の上の鯱(しゃち)は、金鯱として江戸時代からよく知られた。もともとの金鯱は木組みでつくった身の上に、寄せ木張りをして鉛板をかぶせ、そこに銅板を基盤にした金の薄板を張ってつくった。秀吉時代までの城の鯱は、目やヒレなどを金箔(きんぱく)にしただけで、全身に金を張った金鯱の出現は画期的だった。天守や櫓の屋根に据えた鯱は、直接は織田信長の安土城に始まった。安土城の建設にあたって信長は、天主の瓦のコーディネーターとして唐人の一観という人物を採用し、唐様にするよう指示した(『信長公記』)。発掘で出土した安土城天主の瓦は、日本の瓦のデザインと技術で唐様ではない。だから一観は、天主の鯱の創出に関わったと考えている。日本では古代以来、宮殿や寺院の屋根の上に鴟尾(しび)を据えた。そして中国では皇帝の権威を示す最高の吉祥文様として、宮殿の屋根に龍の棟飾りを用いた。たとえば沖縄県の首里城正殿の棟を飾った龍頭棟飾は、その影響が日本列島におよんだのを示す。それは安土城天主最上階の柱に降り龍を描き、その下の6階の壁には鯱と、天を舞う龍とを交互に描いたことから裏付けられる(信長公記)。鯱は龍と同等

 

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