乗船取りやめから2カ月近くたった10月10日、「那覇港で日本の航空隊の練習がある」と聞いていた祖父は、近くの小山に登って港の方を眺めていた。早朝、ごう音とともに飛来した飛行機が、船に次々と爆弾を落としていく。「すごい練習だな」。そう思った直後、空襲警報が鳴り響いた。「練習じゃなかった。米軍の飛行機だった」。急いで家に戻り、10キロの米を担いで家族と防空壕(ごう)へ逃げた。途中、足の親指の爪がはがれたが、痛みに気付いたのは壕に着いてからだった。米軍が沖縄本島に上陸し、地上戦が始まったのは翌45年4月。祖父ら家族6人は本島北部に避難するため、ひとまず電車で嘉手納に向かおうとした。だが、駅で「5年生以上は歩いて行け」と言われ、結局、6人は直線距離にして約80キロを徒歩で避難することになった。
嘉手納では、足の悪い「おばあ」(祖父の祖母)と合流した。祖父たちは途中、「歩けない人を車で送っていく」という人に「おばあ」を預けたが、送り先の合流場所に「おばあ」の姿はない。そうこうするうち、合流場所で米軍の空襲が始まり、以来、「おばあ」とは会っていない。弾薬庫のある山で兵士に「止まれ」と懐中電灯で照らされ、「危うく殺されかけた」。身を寄せた学校では、2歳の妹が夜明けに泣きだし、「(気付かれて)アメリカに爆弾を落とされたら困る。出て行きなさい」と追い出された。そんな経験を経て、ようやくたどり着いた目的地にも食糧はなく、別の場所へ避難しようとしたところを米軍に捕まった。ここでも食糧はない。祖父は「命がけで」米軍の部隊から米を盗んできた。「捕虜になっていた人たちと分けたら少ししか残らなかった。でもみんな何も食べてないから分けたよ」。戦後、祖父の父が大阪から帰ってきた。だが、父の稼ぎだけでは家族7人が食べていくことはできない。13歳だった祖父は米軍のフィリピン人部隊で靴磨きをし、代金の代わりに受け取ったたばこを売って生活費を稼いだ。
戦後すぐ、薬きょうや不発弾がそこら中に落ちており、祖父は、落ちていた薬きょうを使って大きな音が出る「銃」を自作した。「米兵が山から降りてきて襲いに来る。そいつらが来たときに、音で脅す。あとは女の人が家の奥に隠れられるようによ」。弟は幼い頃、遊んでいた不発弾が爆発し、指を1本失った。 18歳からはタクシー運転手として働いたが、「内地に行けば給料が倍になる」と聞き、27歳の時に横浜へ。最初の職場では「朝鮮と沖縄は一緒だ」と差別された。その後、トラック運転手をしていた時に父が亡くなり、本土復帰後の73年9月、沖縄に戻った。対馬丸沈没から60年後の2004年、那覇市に「対馬丸記念館」が開館。多くの同級生を失った祖父の足は向かなかったが、81歳になった年の8月22日に熱が出た。沈没した日に合わせた発熱は3年続き、83歳の時、初めて記念館を訪問。展示された同級生らの写真に手を合わせると、不思議と熱は下がり、翌年以降、発熱しなくなったという。
「沖縄密約」半世紀 90歳の西山太吉さんが語ったこと【news深掘り】 2022年04月04日
沖縄出身の記者 は 日本の漁船 が 中国船のために出漁できない現状 をどう思ってるんだ? まさか腹の中で(・∀・)ニヤニヤしてないだろうな?
「慰霊の日」祖父に聞いた沖縄戦◆記憶受け継ぐ 当時、祖父の父は大阪で働いており、那覇市で5人の子どもを育てていた母は、小学5年生だった祖父を学童疎開船「対馬丸」に乗せることにした。8月21日。祖父自身も乗船する気だったが… 続きは⇒
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