)たちが結んだ和議が嘘だと分かると、朝鮮へ兵を差し向けると宣言。秀吉の暴走が再び始まった。都が重い空気に包まれる中、家康は三男・徳川秀忠(森崎ウィン)を連れ、京に隠居中の酒井忠次(左衛門尉)(大森南朋)を訪問。忠次から“最後の願い”を託され、悩む家康に、秀吉が倒れたとの報が届く…という展開。2人きりになると、忠次は家康を抱き締め「ここまで、よう耐え忍ばれましたな。つらいこと、苦しいこと、よくぞ、乗り越えて参られた」「殿が数数多の困難を、辛抱強くこらえたから、我ら、徳川は生き延びられたのです。殿、1つだけ、願いを言い残してようございますか」「天下を、お獲りなされ。秀吉を見限って、殿が、おやりなされ」——。
雪が舞う3カ月後。鎧を身にまとった忠次が縁側に。「殿から、出陣の陣触れがあったんじゃ。参らねば」と立ち上がった途端、地面に座り込む。登与(猫背椿)が具足の紐を締めると、忠次は息絶えていた。登与は「ご苦労さまでございました」——。忠次「殿だから、できるのでござる。戦が嫌いな、殿だからこそ。嫌われなされ。天下を、獲りなされ!」家康に「天下を獲りなされ」と遺言めいたことを残す左衛門尉忠次。初めて台本を読んだ時、この台詞が「天下を獲れ」という“命令”でもなく、「天下を獲れますぞ」という“提案”でもない、「天下を獲りなされ」という“許可”であるところに、家康と左衛門尉が40話近くの間、積み上げてきた関係性のすべてが表れているのではないか。そう感じました。桶狭間合戦後、今川方に残りたかった家康に、妻子を見殺しにしてまで織田方に寝返らせたのも左衛門尉なら、姉川の戦いで浅井に与せず、織田軍にとどまらせたのも左衛門尉。築山事件も、本能寺の変も、秀吉に臣従する際も、ことごとく家康は自分の想いとは逆の決断を強いられてきましたが、その時、いつも傍らには左衛門尉がいました。そんな抑圧の象徴でもある左衛門尉が、秀
だから、私が大森南朋さんにお願いしたことはただ一つ。「厳しく家康を律してきた父親代わりの左衛門尉。そして、苦楽をともにしてきた無二の友人としての左衛門尉。その厳しい左衛門尉と優しい左衛門尉。両方の左衛門尉を入れてほしい」。それだけです。 そんな投げっぱなしなお願いを、大森さんが素晴らしい表現として返してくれました。もう、あとは語るに及ばず。どうお感じになったでしょうか。それは映像をご覧になった方の自由ですが、少なくともお芝居の相手の松本潤さんには大きく響いています。件の台詞を聞いた後に流した涙と表情は、決して松本潤さん1人でたどり着いたものではなく、そのシーンでの大森さんのお芝居が、そしてクランクインから1年以上の時間をともにしてきた2人の時間が、生み出したものでしょう。
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