昨秋、京大野球部が初めて4位に食い込んだ原動力が、チーム5勝のうち3勝を挙げた原健登投手(3年=彦根東)だ。関西学生リーグでは、絶対的エース藤原風太投手(4年=東海大仰星)が第1戦、原が第2戦の先発を任された。春に右肘を痛めていた原を救ったのが、この夏からトレーナーとしてチームに参加した91年阪神ドラフト1位の萩原誠氏(46)だった。

昨秋3勝を挙げた京大・原
昨秋3勝を挙げた京大・原

原は「萩原さんから『肘の負担がかかりにくいから、こっちの方がいいよ』と言われて、親指を曲げるようにしたんです」と説明する。それまでは投球時に親指を添える形でボールを握っていたが、第1関節を90度折り曲げ、親指の右側面でも支えるように変更した。わずかな違いだが、そこには萩原氏がプロで苦労した経験が生きていた。

京大・原の以前の握り方(右)と現在の親指を曲げる握り方(左)
京大・原の以前の握り方(右)と現在の親指を曲げる握り方(左)

萩原氏は「僕も肘、肩を壊した。(京大では)握り方とかを詳しくやっていなかった。親指を(内側へ)曲げて掛けることで肘への負担が減る」。萩原氏は掛布雅之氏の背番号「31」を受け継いだスラッガーとして期待された。だが、投手をしていた小学生で右肘を壊し、中学では右肩を壊した。プロでも内野のスローイングに苦労した。

松井秀喜氏らのパーソナルトレーナーを務めた小波津(こはつ)祐一氏(51)からレクチャーを受けた萩原氏は「痛みを取ってもらって、痛くない投げ方ができた。キャッチボールをすることが楽しくなった。近鉄に行ってからでした」と話す。その喜びをケガで悩む野球人に教えたいと専門学校に入り、08年に国家資格である柔道整復師の免許を取得。現在は奈良で「整体院誠」を開く。患者だった京大の青木孝守監督(65)に誘われ、昨夏から主に投手陣のケアを任されている。

萩原氏は「賢い人たちなので、僕が学んだ知識をヒントにうまく利用してくれればいい」と話す。原は親指を曲げるだけでは指にかからず、思うように投げられなかった。だが「人さし指と中指を一番高い位置から少し横にズラすことで、ボールと手の間に余裕ができた。肘をケガする前より、直球が速くなって制球もよくなった。力を抜いていい球がいくようになり、肘の負担も少なくなりました」とアレンジした。

正捕手として19年の年間7勝に貢献した京大・長野
正捕手として19年の年間7勝に貢献した京大・長野

9月22日の近大との第2戦では、127球で3安打完封。会心のリーグ戦初勝利で、5連敗発進だったチームを初白星に導いた。受けた長野高明捕手(3年=洛南)は「今まで力んでいたが、あの日は力が抜けて楽に投げていた。内角を攻めていけた」。キレ、制球とも最高で、強気に攻めることができた。

続く関学大戦は5安打1失点で完投勝利。さらに同大戦でも4安打1失点完投で3勝目を挙げた。右肘に不安があり、3イニング持つかどうかだった原の3完投3連勝。それは00年秋以来38季ぶりの勝ち点2と、82年に関西学生リーグが発足して以来、京大初の4位躍進に欠かせなかった。

原の成長を誰よりも喜んだのが、元ソフトバンクの近田怜王投手コーチ(29)だった。(つづく)【石橋隆雄】

現役時代の阪神、近鉄のユニホームをバックに笑顔を見せる、京大に昨夏から加入した萩原誠トレーナー
現役時代の阪神、近鉄のユニホームをバックに笑顔を見せる、京大に昨夏から加入した萩原誠トレーナー

◆萩原誠(はぎわら・まこと)1973年(昭48)4月6日生まれ、大阪・大東市出身。大阪桐蔭では91年、4番として夏の甲子園初出場のチームを優勝に導いた。高校通算58本塁打。同年ドラフト1位で阪神入り。98年近鉄に移籍し、01年までプレーした。02年に社会人の日本IBM野洲でアマ復帰。03年の休部とともに現役引退した。プロ通算は124試合、打率1割9分2厘、4本塁打、14打点。右投げ右打ち。